今回《暮らしの古典142話》のタイトルは「湯島」です。
折口信夫の「年譜」に「東京湯島」の文字が見えます。
今日、「湯島」は文京区で、湯島天神、湯島聖堂があります。
いったい、折口信夫が何歳の記事にみえるのでしょうか?
在学したのは国学院で、教鞭を執ったのは国学院と慶應義塾でしたね。
前回は、「「当時その方に向いて居た世間の母系論」について
1924年に至る折口信夫を取り巻く環境に照らして
折口「祖=母」説を検証してみることにします」と課題を提示しました。
1924年当時、折口の述べる
「当時その方に向いて居た世間の母系論」とは何でしょう。
長じて民俗学者となり歌人でもあった折口の幼少期の家庭環境や如何?
*「年譜」の冒頭を引きます。
*「年譜」:『精選折口信夫Ⅵ アルバム』2019年、慶応義塾大学出版会㈱
「折口信夫略年譜」
◆明治20年(1887) 0歳
2月11日、大阪府西成郡木津村234番屋敷
(後、大阪市浪速区鴎町1丁目1231番地)に誕生。
父秀太郎、母こうの四男。(中略)
父は福井永次の次男で婿養子に入り、家業の医業を継いだ。
信夫生誕時の家族は曽祖母とよ、祖母つた、父秀太郎、母こう、
叔母ゆう・えい、姉あゐ、兄の静・順・進の10人。
出生地は明治の半ばにあっては、都市部に隣接する、マチバの外れであり、
家業について自身は*「わが子・我が母」に次のように記述しています。
*「わが子・我が母」:『精選折口信夫Ⅴ 随筆ほか・迢空詩編』2019年、
慶応義塾大学出版会㈱、
初出「わが子・我が母」1948年1月『婦人』第2巻第1号
◆家は代々生薬屋で、先代の祖父の時から、父親其から其後、兄の代へかけて、
医者も兼業してゐた。(中略)
母はこの家の長女に生れて、河内から私の父を婿養子に迎へた訣である。
家業の生薬屋は医業も兼業していたとあります。
家庭環境としては中産階級であって知的には恵まれた環境にあったことは、
1925年5月『教育論叢』記事にある少年期の読書傾向にも読み取られます。
1925年5月『教育論叢』:「新しい国語教育の方角」『折口信夫全集12』
1996年、中央公論社
初出1925年5月『教育論叢』第13巻第5号
◆柔弱な私には、「太平記」や「盛衰記」などよりも、
近松物、種彦物などが親しまれました。
一方「少国民」「少年世界」に飽いても、
四角張った「少年文集」や「中学世界」などを毛嫌ひした私は、
兄や父のとつて居た「文庫」、「太陽」などの盗み読みを楽しみました。
かなり嗜好に偏りがあるオマセな少年であったようです。
「兄や父のとっていた雑誌を「盗み読み」をしていたとあります。
さぞ、当時の思潮を斜め読みしていたことでしょう。
とりわけ雑誌『太陽』に注目します。
『広辞苑 第七版』 ©2018 株式会社岩波書店の雑誌『太陽』の項は以下の如し。
◆明治・大正期の代表的な総合雑誌。
1895年(明治28)1月創刊。
政治・社会から文芸までを広く取り上げ、執筆者も多岐にわたった。博文館発行。
1928年(昭和3)2月廃刊。
折口の「年譜」に重ねますと8歳の時、創刊、40歳の時、廃刊。
早熟で多感であった折口は、明治から大正期の「政治・社会から文芸」に亘る
多様な記事を目にしていた可能性はあります。
たしかに、そのような思潮が折口の思想の背景にあるとしても、
直接的には家族の中にいる、一人の女性からの影響が
折口の思想形成に関与していると考えられます。
その人物は末の叔母「えい」であります。
「年譜」の「明治27年(1894) 7歳」を引きます。
◆この年、叔母えい東京湯島の済生学舎に進学。
贈られた『東京名所図会』の見開きに、初めての自作歌
「たびごろもあつささむさをしのぎつつめぐりゆくゆくたびごろもかな」を記す。
今回のタイトルの「湯島」が出ました。
叔母えいが学んだ「東京湯島の済生学舎」は、
*『東京諸学校学則一覧』に掲載されています。
*『東京諸学校学則一覧』:『東京諸学校学則一覧』巻之下、
1883年、小田勝太郎編輯、島村利助出版
◆東京医学専門学校済生会学舎 本郷元町二丁目
第1條 学則/
一本舎ノ旨趣ハ学業ノ速成ヲ要スルニアルヲ以テ医学ノ要領ヲ教授シ
期スルニ三年ヲ以テス其学科左ノ如シ(以下、3年6期の教科)
「済生学舎」は「東京医学専門学校済生会学舎」のことで
「医学ノ要領ヲ教授」とあって医者になるための専門学校でした。
所在地は「本郷元町二丁目」と記されていますが、
明治27年入学の叔母えいが学んだ学舎は、その後の移転先でした。
*「濟生學舎発祥の地」HPに
「明治15年に湯島四丁目8番地」に移転した旨、記されています。
*「濟生學舎発祥の地」HP@https://840.gnpp.jp/saiseigakusha-sekihi
その移転先は*『東京案内』に次の記事があります。
*『東京案内』:『東京案内』下巻、東京市役所市史編纂係、1907年、「11 本郷区」
◆湯島四丁目(上略)里俗呼で聖堂裏と曰ふ。
「聖堂」については次の記事があります。
◆湯島二丁目 元禄以来聖堂のありたる地也。
写真図 湯島聖堂全景

まさに神田に比肩し得る文教地区に叔母は学んだのでありますが、
晩年の折口の1951年*「まなびのまど」には自身が国学院に入学するに当っての
末の叔母えいの信夫への思いが綴られています。
*「まなびのまど」:「まなびのまど」『折口信夫全集33』333頁、1998年、中央公論社、
初出1951年3月『院友会会報』第11号
「まなびのまど」とは、国学院学舎の窓で、
それには末の叔母にとっては消し難い「いやな記憶」があったようです。
次の記事からは、叔母の東京遊学の経緯の一端がかいま見えます。
◆私のまだ幼稚園通ひをしてゐる時分、末の叔母が、
大阪に初めて出来た高等女学校*(現・大阪府立大手前高校)を卒業して、
東京へ遊学した。だから、まだ明治20年頃の事である。
その頃湯島にあつた済生学舎といふ女医者の養成もした学校へ這入つた訣である。
読み進みますと、才媛の叔母が「女医者の養成もした学校」を選んだ事情が見えてきます。
◆…医者の家に生れたのだから、兄弟一人残らず医者になつてもよい訣だといふのが、
昔びとの論理である。叔母も固より、其れに異存のありやうはない。
自ら志願して女医への道を選んだのでもなさそうです。
はたまた、彼女の在学中には思わぬことがありました。
叔母は飯田町五丁目の下宿先の家の裏にあった国学院の学生から
迷惑行為を受け続けました。
叔母の「いやな記憶」は、これから国学院に学ぼうとする信夫に向けられました。
叔母は信夫を呼びつけ、しみじみと東京遊学中の昔話をして聞かせました。
◆女の子の居る部屋をのぞく学生たちを育てるやうな学校へ、
自分のてしほにかけた甥を、入れる気になると思ひなさるかと言つて、
ひらき直つたものである。
けれどもとゞのつまり、おしきつて国学院に這入つた。
一度も女の子の部屋を見おろした経験はないが、
叔母には何だか相すまぬ気が、いまだにする。
国学院の先輩たちのした罪障の贖ひでもするやうな気持ちで。
「自分のてしほにかけた甥」に叔母の並々ならぬ信夫への愛情が読み取られます。
次回は、並々ならぬ愛情を抱いてくれた叔母えいとの関係を端緒として
折口晩年における「妣の国」解釈を考えてみることにします。
大阪民俗学研究会代表
新いちょう大学校講師 田野 登