晴耕雨読 -田野 登- -10ページ目

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。

このところ、人前でお話するのに、

昔、自分で調査しまとめた論考を、

PowerPoint版に編集したのをベースに、

アドリブを交えながら話すことが増えました。

こんど、大阪区民カレッジで

「弥次喜多「浪花の旅」の都市民俗」を

2時間弱に100コマで話します。

この話の元ネタは、「不思議の浪花の弥次喜多道中」『大阪春秋』1994年3月から

1995年1月にかけて掲載したものです。

もう30年も前に書いた記事です。

それを2007年出版の『水都大阪の民俗誌』に

〈『道中膝栗毛』浪花見物の都市民俗〉として掲載する時には、

一部修正しました。

さらに府民カレッジ、区民カレッジ、

地域コミュニティサロンで話す時は、

「はじめに」での解題、「むすび」での

今の話者である自分のコメントを

付け加えています。

話題の中心である衣食住、生業の大坂と江戸との違いの

説明であっては、

まず著書の記事から、わかり易いところを抄出しています。

この際、本文を幾ら自著とはいえ、

書き換えたりはしません。

例えばサツマイモの食べ方について、

江戸は、当時既に「焼き甘薯」を食していたのに対して、

大阪は「今日では行商の売りに来るのは「焼き芋」であって、

蒸し芋の味は忘れられつつある。

家庭で食べるだけで、商品からは消えた」とある元の記事を示した上で、

「ボクの子どもの頃、蒸し器で蒸したのを食べていました」と

アドリブで、コメントするようにしています。

原著を書き換えるのでなく、

補足するようにしているのです。

今回の日々寸感は、

講座での話の「零れ話」を取り上げました。

これを以て「余滴」と題すことにします。

 

浦江の破屋での母が拵えてくれた

「ほっこり」した味を懐かしむ田夫野人の子孫識す

今回《暮らしの古典142話》のタイトルは「湯島」です。

折口信夫の「年譜」に「東京湯島」の文字が見えます。

今日、「湯島」は文京区で、湯島天神、湯島聖堂があります。

いったい、折口信夫が何歳の記事にみえるのでしょうか?

在学したのは国学院で、教鞭を執ったのは国学院と慶應義塾でしたね。

 

前回は、「「当時その方に向いて居た世間の母系論」について

1924年に至る折口信夫を取り巻く環境に照らして

折口「祖=母」説を検証してみることにします」と課題を提示しました。

1924年当時、折口の述べる

「当時その方に向いて居た世間の母系論」とは何でしょう。

長じて民俗学者となり歌人でもあった折口の幼少期の家庭環境や如何?

*「年譜」の冒頭を引きます。

 *「年譜」:『精選折口信夫Ⅵ アルバム』2019年、慶応義塾大学出版会㈱

「折口信夫略年譜」

◆明治20年(1887) 0歳

 2月11日、大阪府西成郡木津村234番屋敷

 (後、大阪市浪速区鴎町1丁目1231番地)に誕生。

 父秀太郎、母こうの四男。(中略)

 父は福井永次の次男で婿養子に入り、家業の医業を継いだ。

 信夫生誕時の家族は曽祖母とよ、祖母つた、父秀太郎、母こう、

 叔母ゆう・えい、姉あゐ、兄の静・順・進の10人。

 

出生地は明治の半ばにあっては、都市部に隣接する、マチバの外れであり、

家業について自身は*「わが子・我が母」に次のように記述しています。

 *「わが子・我が母」:『精選折口信夫Ⅴ 随筆ほか・迢空詩編』2019年、

           慶応義塾大学出版会㈱、

           初出「わが子・我が母」1948年1月『婦人』第2巻第1号

◆家は代々生薬屋で、先代の祖父の時から、父親其から其後、兄の代へかけて、

 医者も兼業してゐた。(中略)

 母はこの家の長女に生れて、河内から私の父を婿養子に迎へた訣である。

 

家業の生薬屋は医業も兼業していたとあります。

家庭環境としては中産階級であって知的には恵まれた環境にあったことは、

1925年5月『教育論叢』記事にある少年期の読書傾向にも読み取られます。

 1925年5月『教育論叢』:「新しい国語教育の方角」『折口信夫全集12』

            1996年、中央公論社

            初出1925年5月『教育論叢』第13巻第5号

◆柔弱な私には、「太平記」や「盛衰記」などよりも、

 近松物、種彦物などが親しまれました。

 一方「少国民」「少年世界」に飽いても、

 四角張った「少年文集」や「中学世界」などを毛嫌ひした私は、

 兄や父のとつて居た「文庫」、「太陽」などの盗み読みを楽しみました。

 

かなり嗜好に偏りがあるオマセな少年であったようです。

「兄や父のとっていた雑誌を「盗み読み」をしていたとあります。

さぞ、当時の思潮を斜め読みしていたことでしょう。

とりわけ雑誌『太陽』に注目します。

『広辞苑 第七版』 ©2018 株式会社岩波書店の雑誌『太陽』の項は以下の如し。

◆明治・大正期の代表的な総合雑誌。

 1895年(明治28)1月創刊。

 政治・社会から文芸までを広く取り上げ、執筆者も多岐にわたった。博文館発行。

 1928年(昭和3)2月廃刊。

 

折口の「年譜」に重ねますと8歳の時、創刊、40歳の時、廃刊。

早熟で多感であった折口は、明治から大正期の「政治・社会から文芸」に亘る

多様な記事を目にしていた可能性はあります。

 

たしかに、そのような思潮が折口の思想の背景にあるとしても、

直接的には家族の中にいる、一人の女性からの影響が

折口の思想形成に関与していると考えられます。

その人物は末の叔母「えい」であります。

「年譜」の「明治27年(1894) 7歳」を引きます。

◆この年、叔母えい東京湯島の済生学舎に進学。

 贈られた『東京名所図会』の見開きに、初めての自作歌

 「たびごろもあつささむさをしのぎつつめぐりゆくゆくたびごろもかな」を記す。

 

今回のタイトルの「湯島」が出ました。

叔母えいが学んだ「東京湯島の済生学舎」は、

*『東京諸学校学則一覧』に掲載されています。

*『東京諸学校学則一覧』:『東京諸学校学則一覧』巻之下、

            1883年、小田勝太郎編輯、島村利助出版

◆東京医学専門学校済生会学舎 本郷元町二丁目

 第1條 学則/

 一本舎ノ旨趣ハ学業ノ速成ヲ要スルニアルヲ以テ医学ノ要領ヲ教授シ

 期スルニ三年ヲ以テス其学科左ノ如シ(以下、3年6期の教科)

 

「済生学舎」は「東京医学専門学校済生会学舎」のことで

「医学ノ要領ヲ教授」とあって医者になるための専門学校でした。

所在地は「本郷元町二丁目」と記されていますが、

明治27年入学の叔母えいが学んだ学舎は、その後の移転先でした。

*「濟生學舎発祥の地」HPに

「明治15年に湯島四丁目8番地」に移転した旨、記されています。

 *「濟生學舎発祥の地」HP@https://840.gnpp.jp/saiseigakusha-sekihi

その移転先は*『東京案内』に次の記事があります。

 *『東京案内』:『東京案内』下巻、東京市役所市史編纂係、1907年、「11 本郷区」

◆湯島四丁目(上略)里俗呼で聖堂裏と曰ふ。

「聖堂」については次の記事があります。

◆湯島二丁目 元禄以来聖堂のありたる地也。

写真図 湯島聖堂全景

まさに神田に比肩し得る文教地区に叔母は学んだのでありますが、

晩年の折口の1951年*「まなびのまど」には自身が国学院に入学するに当っての

末の叔母えいの信夫への思いが綴られています。

 *「まなびのまど」:「まなびのまど」『折口信夫全集33』333頁、1998年、中央公論社、

          初出1951年3月『院友会会報』第11号

「まなびのまど」とは、国学院学舎の窓で、

それには末の叔母にとっては消し難い「いやな記憶」があったようです。

次の記事からは、叔母の東京遊学の経緯の一端がかいま見えます。

◆私のまだ幼稚園通ひをしてゐる時分、末の叔母が、

 大阪に初めて出来た高等女学校*(現・大阪府立大手前高校)を卒業して、

 東京へ遊学した。だから、まだ明治20年頃の事である。

 その頃湯島にあつた済生学舎といふ女医者の養成もした学校へ這入つた訣である。

 

読み進みますと、才媛の叔母が「女医者の養成もした学校」を選んだ事情が見えてきます。

◆…医者の家に生れたのだから、兄弟一人残らず医者になつてもよい訣だといふのが、

 昔びとの論理である。叔母も固より、其れに異存のありやうはない。

 

自ら志願して女医への道を選んだのでもなさそうです。

はたまた、彼女の在学中には思わぬことがありました。

叔母は飯田町五丁目の下宿先の家の裏にあった国学院の学生から

迷惑行為を受け続けました。

叔母の「いやな記憶」は、これから国学院に学ぼうとする信夫に向けられました。

叔母は信夫を呼びつけ、しみじみと東京遊学中の昔話をして聞かせました。

◆女の子の居る部屋をのぞく学生たちを育てるやうな学校へ、

 自分のてしほにかけた甥を、入れる気になると思ひなさるかと言つて、

 ひらき直つたものである。

 けれどもとゞのつまり、おしきつて国学院に這入つた。

 一度も女の子の部屋を見おろした経験はないが、

 叔母には何だか相すまぬ気が、いまだにする。

 国学院の先輩たちのした罪障の贖ひでもするやうな気持ちで。

 

「自分のてしほにかけた甥」に叔母の並々ならぬ信夫への愛情が読み取られます。

次回は、並々ならぬ愛情を抱いてくれた叔母えいとの関係を端緒として

折口晩年における「妣の国」解釈を考えてみることにします。

 

究会代表

新いちょう大学校講師 田野 登

台風一過というべきか、今朝は爽やかな朝です。

今朝は「恵存」という、あまり使われない言葉を取り上げます。

このパソコンで「けいぞん」を叩いても

「恵存」が出てこなかったもので、

単語登録しました。

「恵存」は手書きでこそ、気持ちが伝わるものです。

この言葉を取り上げる気になりましたのは、

折口信夫全集に

「この書物は、大阪木津なる、折口えい子刀自に、

 まづまゐらせたく候。」なる一文が

頁を割いて載せられているのが気になったからです。

これは、本来、献辞として、

著者が著作物をとあるお方に差し上げる際に、

傍らに添える言葉です。

「まづまゐらせたく候」とあって、

まず何よりも最初にさしあげたいと申し述べているのです。

若い頃、毎年のように民俗学会に発表に出かけました。

論文の抜き刷りを差し上げたり、戴いたりしたものです。

学会から帰っては、

お礼にと自分の論文の抜き刷り表紙の右上に

「○○先生 恵存 (署名)」と書き添えたのを

封書で郵送したものです。

「恵存」の「恵」は「おくる」、

「存」は「おそばにおいていただく」といった

敬意を込めてさしあげるという意味です。

これを間違えて「恵与」と書けば大変です。

「くれてやる」とでも誤解を招きます。

「恵与」は尊敬語であって、

戴いた著作物へのお礼に用いる言葉で

「恵与賜り感謝申し上げます」となります。

書いた者とすれば、

お読みいただくことを願っての言葉が「恵存」であって、

仮にも著作物が中古品として

出品されたりしたら悲しくなります。

最近は学会発表もしなくなり、

送られてくる著作物も減りましたが、

戴いたのを無下に廃棄する訳にもゆきませんので

我が「書斎」は満杯状態で、

読み終えてお礼状を書くのを怠ったりもしています。

ともあれ、学恩に感謝しつつ、

慎ましく余生を機嫌よく過ごしております。

浦江の破屋を起って早や四拾有余年の田夫野人の子孫

昨日2025年9月2日、

日清戦争後の総合雑誌『太陽』の「家庭」欄に

母権性の名残を調べに、図書館に出かけました。

大した成果もなく、

1時間に1本のバスに合わせて停留所に向かいました。

猛暑に夏草が映え放題の光景を目にしました。

目の先には役所が見えます。

写真図 役所図書館前250902

「家庭」に関するその日の収穫はともかく、

「ホームスウィートホーム」は

小学生の頃の吾輩にはありました。

今回もまた昭和30年代の話です。

一家団欒のひと時に「ホームドラマ」を

家族一緒に観ていたことを思い出しました。

「ホームドラマ」という言葉は和製英語のようです。

漢字で「家族劇」と書けば曾我廼家の喜劇、

当時なら天外、寛美の松竹新喜劇のホロっとさせる方に

行ってしまいますので和製英語を用います。

祖母、父母、子供二人家族五人、浦江の破屋で

つつましく暮らしていました。

「パパは何でも知っている」なんぞは、

アメリカ版のホームドラマでした。

パパ・ママに長女、長男、次女の五人で

祖父、祖母はいませんでした。

彼らは、いったい何処で暮らしていたのでしょう?

日本には

「養老院」という高齢者施設があるにはありました。

当時の、この国の家族構成は三世代同居が当たり前でした。

「七人の孫」は、

森繫久彌が演じる明治生まれの祖父が主人公で

何か一家言を呈する昭和の家庭がドラマの舞台でした。

当時は、今の「ジィジ」よりも偉い祖父が健在でした。

家父長制の名残でもあったのでしょうか?

その後「核家族化」が進み、親子単位の家庭が増え、

祖父、祖母は余生を持ち家に残し、

子どもたちは巣立ってゆきました。

残された家庭は「もぬけの殻」で、

子どもたちの元気な声も聞こえません。

あれほど隆盛を極めたジャンル「ホームドラマ」や、いま何処?

NHKの「連続テレビ小説」、「朝ドラ」や健在?

家族を軸に懐かしの「昭和史」をドラマ化しているのでしょう。

少子高齢社会にあって、

団地の地蔵盆も寂れているとの報告も「便り」に届いています。

冠婚葬祭も萎んでいるようです。

「衣食足りて礼節を知る」は、この国の現況を語っています。

このまま進めば、高齢者の集団独語が蔓延し、

やがては聞き取る者もなく、ひとり他界してゆくのでしょう。

この時代、酷暑の9月にめげず、

出歩き、身近な人と声を掛け合い、

お互い世間話に些細なドラマを語り合いたいものです。

 

浦江の破屋をほったらかして

気楽に暮らす田夫野人の子孫

今週の≪暮らしの古典≫は141話「口拍子」です。

ついつい口車に乗せられてで、

折口は済ませようとしているのでしょうか?

「妣の国」物語を人の「カタリ」のせいにしているようです。

如何なる場面での口吻でしょうか?

 

前回、「「妣の国」である「常世の国」の具体的な地名の明示はありません。

「妣」ならぬ生身の「母」の在所からの経路により窺えそうです。

次回、折口1920年「妣が国」の決着を付けます」と大見得を切りました。

どうも折口はスサノヲの大泣き、亡き母「妣」の国への思慕と解釈したあたりは、

「母国」の意味である「妣が国」を態々、取り違えたのでしょうか?

写真図 「スサノオの試練」イメージ

折口が意味を取り違えたであろう「妣が国」記事を駆け足でたどります。

ルビは省略します。

◆すさのをのみことが、青山を枯山なす迄慕ひ歎き、いなひのみことが、

波の穂を踏んで渡られた「妣が国」は、

われ/\の祖たちの恋慕した魂のふる郷であつたのであらう。

いざなみのみこと・たまよりひめの還りいます国なるからの名と言ふのは、

世々の語部の解釈で、

誠は、かの本つ国に関する万人共通の憧れ心をこめた語なのであつた。

 

折口は「世々の語部の解釈」とは別に「誠」があると述べています。

「語部」によるカタリとして

「いざなみのみこと・たまよりひめの還りいます国」を槍玉に挙げています。

此処で折口は「還」を「かへる」と訓み「死者の還る国」との解釈で理解しています。

*『古事記』原文では、

イザナキとの問答でのスサノヲの言葉を以下のとおり記述しています。

 *『古事記』:『古事記』新編日本古典文学全集1、岩波書店1997年

◆其泣状者、青山如二枯山一泣枯、河海者悉泣乾。(中略)

答白、僕者、欲レ罷二妣国根之堅州国一故、哭。

 

「妣国根之堅州国」とあります。

「新編全集本」頭注には
「…妣
=伊邪那美神だから根之堅州国=黄泉国だとする説は成り立たない。

世界としての呼称が違うのであり、それは別の世界であることを明示する」とあります。

別の世界としても「妣が国」が「万人共通の憧れ心をこめた語」とは到底、考えられません。

折口1920年「妣が国」の引用を続けます。

◆而も、其国土を、父の国と喚ばなかつたには、訣があると思ふ。

第一の想像は、母権時代の俤を見せて居るものと観る。

即、母の家に別れて若者たちの、此島国を北へ/\移つて行くに連れて、

愈強くなつて来た懐郷心とするのである。

 

ここでは「妣が国」ならぬ「母の国」からの経路、

折口1920年「妣が国」に云うところの「民族移動」を読むことができます。

この「民族移動」を熊野における大王崎体験と繋ぎ合わせますと、

琉球諸島を起点とする「南方民族移動」が想定されます。

その海の道は「母の家に別れて若者たち」の北上しての本土への海上の道が想像されます。

引用の続きを載せます。

◆併し今では、第二の想像の方を、力強く考へて居る。

其は、異族結婚によく見る悲劇風な結末が、若い心に強く印象した為に、

其母の帰つた異族の村を思ひやる心から出たもの、と見るのである。

かう言つた離縁を目に見た多くの人々の経験の積み重ねは、どうしても行かれぬ国に、

値難い母の名を冠らせるのは、当然である。

 

「異族結婚」に「えきぞがみい」のルビがあります。

この「第二の想像」を含む一連の「妣の国」解釈は

「妣=伊邪那美神」とする折口解釈によるもので、

『古事記』「語部」による物語において

「僕者、欲レ罷二妣国根之堅州国一故、哭」とある

「妣国根之堅州国」をイザナミの「黄泉の国」と同定した

折口解釈に起因する《イザナミ・スサノヲ:母・子》物語解釈と考えられます。

それを折口は「母権時代」と時代設定し、『古事記』本文に無い「此島国を北へ」言説を

紡ぎ出したと推測します。

「南方民族移動言説」は翌年の1921年鳥居龍蔵による北方民族神話と、

日本の高天原神話との類似とは相容れないものでありました。

 

折口をして「訂正の積り」と書かしめた4年後の1924年*「信太妻の話」記事から

「南方民族移動言説」を確かめます。

 *「信太妻の話」:「信太妻の話」『折口信夫全集2』278頁、1995年、中央公論社、

初出1924年4月6月7月『三田評論』320・322・323号

ルビは省略します。

◆「妣が国」と言ふ語はすさのをの命といなひの命との身の上に絡んで、伝はつて居る。

すさのをの命は亡母(即、妣)いざなみの命の居られる根(ネ)の国に憧れて、

妣が国に行きたいと泣いたとある。

いなひの命は熊野の海で難船に遭うて、妣が国へ行くと言うて、海に這入つた。

此母は、海祇(ワタツミ)の娘たまより媛をさすのは、勿論である。

うつかり見れば、其時々の偶発語とも見えよう。

併し此は、われ/\の祖先に共通であつた歴史的の哀愁が、

語部の口拍子に乗つて

時久しく又、度々くり返されねばならぬ事情があつたのであらう。

 

「海祇」には「ワタツミ」のルビが振られています。

1920年「妣が国」において「世々の語部の解釈」であったのが

4年後の1924年*「信太妻の話」では

『古事記』スサノヲ記述を「語部の口拍子に乗つて」といっそう、

語部による物語性を強調するかたちになっています。

今週のタイトルの「口拍子」が遂に出ました。

1920年「妣が国」のスサノヲ記述は語部の口拍子に乗せられてと

4年後の折口は言い訳をします。

1924年「信太妻の話」引用を続けます。

冒頭の「此常套語」は語部の発した言葉です。

此常套語を、合理式に又、無反省に用ゐて来たのを、

記・紀は、其儘書き留めたのである。

以前の考へでは、故土を離れて、移住に移住を重ねて行つた人々の団体では、

母系組織の下に人となつた生れの国を、憶ひ出し/\した其悲しみを、

此語に籠めて表したのが、いつか内容を換へる事になつたのだと説いたと思ふ。

 

「母系組織の下に人となつた生れの国」とは、

母系組織の下に「一人前の国」となったとでも云うのでしょう。

「此語」とは「妣の国」という語です。

引用を続けます。

◆併しかうした考へは、当時その方に向いて居た世間の母系論にかぶれて

知らず/\に出て来たのであつたらう。

やはり、我々の歴史以前の祖先は、物心つくかつかぬかの時分に、

母に別れねばならぬ訣があつたのである。

 

当時その方に向いて居た世間の母系論にかぶれて」とは穏やかではありません。

「かぶれる」とは「その風に染まる。感化される。(悪く)影響される」の意であります。

「当時その方に向いて居た世間の母系論」とは、いったい何でしょう。

 

読み進みますと、以下の一文に行き着きます。

「ともかくにも、生みの子を捐てゝ帰つた母を慕ふ心が

「妣の国」と言ふ陰影深い語となつて現れたのであらう」

『古事記』中3カ所しか用いられない「妣の国」という語への

折口の思い入れが偲ばれます。

この後「脇道に逸れた話」としたうえで「信太妻の話 九」の

「わが国の婚姻史」が結ばれます。

鳥居1921年「妣国」論に論破されたのを「当時その方に向いて居た世間の母系論」の

せいにしているようにも思えます。

次回は、「当時その方に向いて居た世間の母系論」について

1924年に至る折口信夫を取り巻く環境に照らして

折口「祖=母」説を検証してみることにします。

 

究会代表

新いちょう大学校講師 田野 登