晴耕雨読 -田野 登- -8ページ目

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。

2025年秋の大阪あそ歩「海老江・鷺洲」コースは

10月15日に行います。

10月1日(水)に恒例の2週間前下見をしてきました。

マンションが急増する都会は、

ランドマークが突然見えなくなったりもします。

今回は地元の人なら何とも思わないスポットに焦点を当てて

梅田近辺を「ふしぎ案内」をします。

写真図1 野田阪神駅・海老江駅の出入口

海老江と野田の境界近くにある阪神本線「野田駅」付近の

大阪メトロ千日前線とJR東西線駅の出入口です。

JR東西線の駅名が「海老江」になった経緯は歩きながら話しましょう。

集合場所は、地上に上がって右の藤棚の下のベンチです。

阪神本線「野田駅」南側の広場です。

写真図2 大型電気店の「大阪野田店

国道2号線「阪神国道」を北進して左手に「大阪野田店」があります。

海老江なのに「大阪野田」とは?

都島区にも「野田」があるのに如何?

石畳路地の現況を確かめながら、ソーロっと抜けます。

阪神国道と「疎開道路」(梅田・大開線)の交差点を右に、

「疎開道路」の裏を東進します。

写真図3 大和田梅田街道碑の海老江

まず、いつものことで、この碑は何時、誰が建てたのかを確認します。

原図は「明治40年」です。

「街道」やのに明治の末とは?がっかりしないでください。

地元の研究者・末廣訂さんから戴いた地図によりますと、

郵便局前の道路は井路川(いじがわ)です。

前方の疎開道路は、戦時中の空襲による炎上防止のため

建物疎開でできた広い道路なのです。

「大和田梅田街道」は海老江の本村の八坂神社、南桂寺を通過して、

「新」淀川の土手道に出たようです。

いずれにせよ、中津川が新淀川に付け替えられた時、65%の土地が

河川敷となった海老江です。

65%に、いったい何があったのか?

幻の海老江城や如何?

ともあれ松瀬青々たる俳人が

中之島から舟で海老江に宿替えをした

明治の末の海老江は、「水郷」でした。

〽草の春 田は年々に 家となる

平易な句ですが、農村が都市化する様を句に認めています。

そのような目で、海老江の「不思議」を一緒に探索しましょう。

街道沿いの朝日地蔵堂からは鷺洲の高層マンションが目にとまります。

地蔵堂から北に路地の先に、大木を発見!

写真図4 大楠の場所

末廣さんがお父様からお聴きした一つ話ですが、

浦江(鷺洲)の田圃から田舟に牛を乗せて

一緒に海老江に帰って来たとか?

大きな楠は、村の入口であり、前には井路川が流れていたのです。

水路が巡っていた嘗ての海老江のムラを抜けますとノラです。

浦江のムラまでの間は田圃や野原の広がるノラでした。

疎開道路、海老江の交差点のあたりからは

梅田大和田街道と重なります。

マルピー大日本製薬のあった辺りの字名は、

「大フケ」です。深田が広がる低湿地でした。

塩野義製薬の研究所の跡に高層マンションが建ちました。

校区は鷺洲です。

東進しますと「ロケットマンション」があります。

写真図5 ロケットマンション

このロケットを確かめに当日は鷺洲歩道橋に登ります。

東方にゴールであるJR福島駅となにわ筋を挟んで

ホテル阪神が見えます。

しばらくは、このランドマークが見え隠れしながら

梅田街道をゆきます。

鷺洲の交差点を越えると聖天通商店街。

下見では道草をして鷺洲中公園の彼岸花をワンショット。

写真図6 鷺洲中公園の彼岸花

春先は桜、しばらくすると藤、

子どもの頃の遊び場所に道草をしました。

コースに戻って、聖天薬局の角を北進し直ぐに右折。

福島(浦江)聖天の般若心経塔の借景は

福島・西梅田に立つ高層マンション。

写真図7 般若心経塔の借景

芭蕉句碑は近江の義仲寺編纂の「諸国翁墳記」にも載る、

歴とした杜若塚。

ここで芭蕉伝説を一くさり、

如何に杜若が綺麗に咲き誇っていたことか。

塚には〽杜若 語るも 旅のひとつかな

浦江は、ただの低湿地ではありません。

写真図8 芭蕉句碑は杜若塚

聖天川跡の道路を渡って、ゴールに一目散と言いたいところ、

そこは「売れても占い商店街」こと福島聖天通商店街。

占い師と客の声が幽かに聞こえるかも。

ここは、夕暮れともなれば賑わうグルメ街。

阿弥陀池筋を東進すれば、ランドマークが近くなります。

ゴールはホテル阪神前のJR福島駅。

写真図9 ホテル阪神前のJR福島駅

小人数で歩きたいコースです。

古写真を廻して、「現在」を確かめながら。

ゴールから15分も歩けば梅田、JR大阪駅西口です。

詳しくは↓アクセス

 https://www.osaka-asobo.jp/course960.html

リピーター大歓迎です。

 

究会代表

新いちょう大学校講師 田野 登

「天高く馬肥える秋」、爽やかな朝です。

今日、10月1日、「物価高の秋」が報じられるいっぽう、

「実りの秋」も報じられています。

稲穂の垂れる風景は、昨年までのアルバイト先に行く道で目にしました。

鉄道線路沿いの田圃に見られました。

そこには案山子が立っていました。

小学唱歌に「案山子」を思い出します。

作詞者武笠三、作曲者は不明

 https://www.worldfolksong.com/songbook/japan/kakashi.htm

〽山田の中の 一本足の案山子

天気のよいのに 蓑笠着けて

朝から晩まで ただ立ちどほし…

たしかに雨も降っていない時でも案山子は「蓑笠着けて」立っています。

「蓑笠」の「笠」といえば、子どもの頃、

近くの市場の「特価日」の宣伝に

繰りされた「トザイ トーーザイ」のチンドン屋一行に、

派手な化粧で三味線を弾いていたオバチャンは、

「編み笠」を被っていました。

早速、拙著『水都大阪の民俗誌』で「笠」を検索しました。

一つは、葬列の時の衣装です。

池田市の郊外住宅の調査時の記録です。

◆大正七(一九一八)年の時の*(マチの人の)葬列の様子は、

次のとおりであったという。

「提灯一対を先頭に、白裃・編み笠に藁草履の相続人が位牌を持って続く。

死者の相続人の衣装は「白裃・編み笠に藁草履」です。

非日常の時の「編み笠」です。

岩見重太郎のヒヒ退治伝説が伝わる

「野里住吉」(大阪市西淀川区)の一夜官女祭の行列の

先頭を勤める年行事の衣装は、

裃を着け帯刀し一文字笠を被り、袴を履いています。

被り物があって、それは「一文字笠」でした。

平成になってからも商店街恒例のイベントに

「九条踊り」(大阪市西区)がありました。

◆浴衣は白地に紺で「九条踊り」「浪花名物」と

  染め抜かれている。

  襷は、薄い桃色。帯は、真っ赤。

  編み笠を被り、団扇を持つ。

  白足袋、白草履を履く。

踊り手が被っているのは「編み笠」でした。

少女たちはパワフルに踊りまくっていました。

雨も降らないし、日射しもないのに

「笠」を被っています。

「笠」は、雨除け、日除けといった実用品だけでなく、

被る人に

マジカルな力を与えるモノのようです。

「笠」は

ハレの時を演出する道具の一つなのです。

浦江の名に負う田夫野人之を識す

今週の≪暮らしの古典≫は145話「気の早い正月」です。

秋の彼岸が過ぎたばかりに正月とは気が早い。

正月の話をするのは、12月6日の福島区のコミュニティサロン

「福っくらトーク」での「正月はナゼめでたいか」です。

今回、めでたい話を取り上げます。

3月2日の「ことだま」116話以来、半年がかりの作業も

≪折口「妣の国」物語論≫を「思慕」のタイトルで終えましたので、

改めて連載で書けなかった折口と拮抗する柳田の論考を取り上げることにします。

 

折口1924年(大正13)8月初出の*「巡遊伶人の生活」

「四 ほかひゞとの遺物」の冒頭を挙げます。

「ほかひゞと」は「巡遊伶人」でして、何処かに「正月」が見えるやら?

 *「巡遊伶人の生活」:「巡遊伶人の生活-国文学の発生その二-」

初出『日光』第1巻第5号、1924年8月

◆⑱ほかひゞとの後世に残したものは、由緒ある名称と、

 門づけ芸道との外に、其名を負うた道具であつた。

 延喜式などに見える外居(ルビ:ホカヰ)・外居案(ホカヰヅクヱ)など言ふ器は、

 ⑲行器(ほかひ)一つ物だと言はれて居る。

 其脚が外様に向いて猫足風になつて四本ある処から出たものと思はれて来た。

 かなり大きなもので、唐櫃めいた風らしく考へられる。

 其稍小さくて、縁があつて、盛り物でもするらしい机代りの品を、

 「外居案」と言ふらしい。

「ひ」と「ゐ」とは、音韻に相違はあつても、

 此時代はまだ此二音の音価が定まらないで、

 転化の自由であつた時なのだから、仮字の違ひは、物の相違を意味せないのである。

 (中略)ほかひゞとの略称なる㉔ほかひが、発明者の記念として、

 器の名となるのも、順当な筋道である。

 

仮名遣いの違いから類推される

発音「ほかひ」「ほかゐ」の違いがあるにもかかわらず、

此処ではモノ「ほかゐ」とヒトの生業「ほかひゞと」との関連を唱えています。

行器(ほかひ)とは「唐櫃めいた風」の什器です。

写真図1 おひつ「櫃」のイメージ

 

はたして生業「ほかひ」が什器「ほかゐ」と「一つ物」であって、

「ほかひゞと」が什器「ほかゐ」の「発明者」なのでしょうか?

大いに怪しい説であります。

柳田は折口1924年より7年後、*1931年「行商と農村」に「ほかひゞと」ならぬ

「ホイト(ほいと)」なる語を挙げています。

 *「行商と農村」:「行商と農村」『定本柳田國男集』第16巻、1962年、筑摩書房、

         初出1931年4月『農業経済研究』7-2

◆ホイトが「祝ぎ人」であり祝言の配付を業とする者で、

元は単なる物乞ひで無かつたことは、今日は既に論証する必要も無くなって居る。

殊に正月の吉日に家々の門に立つ者に至つては、

是を一年の平和と康寧との為に欠くべからざる福音として、

尋常の民居に於ては鶯の初音以上に、期待せられて居たことは人が皆知つて居る。

 

タイトルの「正月」が出てきました。

折口の「巡遊伶人」は柳田の「正月の吉日に家々の門に立つ者」であって、

折口「ホカイヒビト」は「ホイト」、「「祝ぎ人」であり祝言の配付を業とする者」と

稼業として重なります。

写真図2 獅子舞イラスト

     「幸せいっぱいの一年になりますように」

     正月はめでたいものなのです。

柳田の引用を続けます

◆尤も乞食と言ふても、今日の意味とは違つて、ホイトやカンジンである。

 ホイトはホカヒ人、ホギ人であり、不完全ながらも交易と言ふべく、

 カンジンも阿弥陀様の堂を建立するから施物を呉れと言つて歩くので、

 矢張りその性質を持つて居た。

 

この記述からは「ホイトはホカヒ人、ホギ人であり」とあり、

稼業としての「ホカイヒビト」を挙げています。

戦後の1946年4月*「ほかひと祭との差」や如何?

 *「ほかひと祭との差」:「44 ほかひと祭との差」『定本柳田國男集』第10巻、

1962年、筑摩書房、初出1946年4月『先祖の話』筑摩書房

◆乞食をホイトといふ語は現在も東北には有るが、

是をホカヒ人といふ名詞は、もう全国どこにも残つて居ない

さうしてホガフ又はホカヒするといふ動詞は、今でも厳粛なる昔のまゝの意味で、

弘く東西の各地に行はれて居るのである。

たとへば秋田県などでは、人に御馳走することをやゝおどけた意味で、

ホガフといふことも稀には有るが、

普通にさういふのは食物を神霊に供へること、

それも主として盆の墓前の手向のことであつた。

この段に至って「ホカヒ人といふ名詞」を取り上げ、

「もう全国どこにも残つて居ない」として折口「ほかひゞと」の消滅を

記述しています。

それでもなお「ホガフ又はホカヒするといふ動詞」が

「人に御馳走する」「食物を神霊に供へる」と変容されつつ、

盆の墓前の祭祀などに伝承されていると記述しています。

 

民俗学者・*小松和彦は、2000年出版『鬼 怪異の民俗学④』の

「簔着て来る者は…-もう一つの「まれびと」論に向けて-」に

「ホイト神」なる語を報告しています。

 *小松和彦:小松和彦「簔着て来る者は…-もう一つの「まれびと」論に向けて-」

       『鬼 怪異の民俗学④』2000年10月、河出書房新社

◆菊地*(和博)によると、こうした来訪者たち

 *(遠野地方での小正月の晩に来訪する「福の神」「春駒」たち)が

 20日の晩まで来訪したのであった。

 菊地は、このような来訪者をまとめて「ホイト神」(乞食神)と呼んでいる。

 まさしくこの晩の来訪者たちの第一の目的は餅や金銭を貰うことにあったのだ。

 

「ホイト神」は小正月の晩に来訪する扮装した「神々」でありました。

いっぽう、国文学の分野における「ホカヒ」や如何?

*1996年『萬葉集』「乞食者」頭注を引きます。

 *1996年『萬葉集』:『萬葉集④』

          (新編日本古典文学全集9、小学館、1996年)

◆庶民の家々を経巡って寿歌(ほぎうた)を唱え、民間芸能を伝えて、

 物乞いをする芸能者。ホカヒはホク(寿)の継続態ホカフの名詞形。

 

行器(ほかひ)についての記述は、勿論ありません。

柳田・折口の研究成果は、淘汰されつつ文学研究にも生かされているのです。

 

究会代表

新いちょう大学校講師 田野 登

日々寸感に「処暑」を載せたのは8月23日のこと。

地蔵盆の頃のことです。

あれからひと月ばかり、暑さもおさまり、

皆さま方、夏服を着替え、

そろそろ、やつそうかという気分になりませんか?

「やつす」という言葉は、おしゃれをする、

『大阪ことば事典』には、「めかす。化粧する」とあります。

ところが、この言葉「恋に身をやつす」となれば、

そうとばかり言えません。

身を焦がれ、身も痩せるほどの思いに耽り、

食べ物も喉を通らない、

こうなれば、おシャレなんぞ、気取ってはおれない心境です。

こんなのは、王朝貴族の歌空言の世界なのでしょうか?

「やつす」に「窶す」の漢字を宛てますと、

寠れる「やつれる」と同根の語であることに気づきます。

「やつれる」には「みすぼらしい様子になる」「痩せ衰える」の意味があります。

大阪で生まれ育った民俗学者・折口信夫を調べていて、

歌舞伎の演技に「やつし事」があることを知りました。

早速『広辞苑』を繰りました。

「仔細あって 身を落とした身分ある人物、金持の息子などが、

 いやしい姿でする演技」とありました。

「やつす」のは賤しいなりをすることが原義のようです。

いくらお芝居で美しく演じられようとも、

それは賤しい身なりの様式に拠るところの演出のようです。

秋空に気分爽快。

「やつし」を思索しておりますと、

いつの間にか雲行きが怪しくなり、

いつもの屈折率の高い折口流の「零落した神々の末裔」を

空想し始めました。

浦江を発って45年。

月一回は帰ろうと思っている田夫野人の末裔之を識す

今週の《暮らしの古典》144話のタイトルは「思慕」です。

『万葉集』⑳4380に難波津を出で発つ時の防人歌

難波津を漕ぎ出て見れば神さぶる生駒高嶺に雲そたなびく」があり、

神々しい生駒高嶺に雲が棚引いている景が詠まれています。

「神さぶる」の「さぶ」と同じ語が、

今回、折口信夫・釈超空の歌に叔母えいの形容として用いられています。

叔母えいは、いったい何方と二重写しされているのでしょう。

 

前回「次回144話は、献辞に込められた「叔母えい」との関係を軸に、

「母」を「祖」とする折口「妣の国」論の物語性を取り上げます」と予告しました。

『古代研究』上梓時の叔母えいの陰ながらの援助は*「木津折口家」から読み取られます。

 *「木津折口家」:中村浩『若き折口信夫』中央公論社1972年「木津折口家」

◆こうして、木津の家計をとりしきる者も、ゑゐ*(えい)となり、

信夫の金銭的苦労を常に隠れて救っていたようである。

『古代研究』(昭和4年*(1929年4月刊))上梓のときには、

こう・静はすでになく、折口家の財政は、ゑゐに一任の形となっており、

おそらく、ゑゐの補助もあったのであろう。

『古代研究(民俗学篇1』の扉に、

「この書物は、大阪木津なる、折口えい子刀自に、まづまゐらせたく候」との

献辞が掲げられているのも、ゑゐが、信夫の学問に早くから理解があっただけでなく、

こうした事情もあずかって力があったのであろう。

 

東京帰りのゑゐ(えい)は、テキパキと家刀自として家業をこなしていました。

折口49歳にしての出版に対しても資金面での援助をしてくれる、

叔母えいは、心強い庇護者でありました。

この二人の関係に関して、あらぬ内緒ごとを勘ぐる向きもあったからでしょうか、

折口自身により書き遺した文言を「木津折口家」は態々、挙げています。

◆全集を精細に読まれる人には、以上のような内緒事を漏らさずとも、

信夫自身、このような憶測の生じぬよう、「その叔母(筆者註・ゑゐのこと)の

長姉の末子に当る私が…」(全集第30巻279頁)などと書き遺しているのである。

 

「このような憶測」とは何でしょう。

「木津折口家」は、生みの母・こうの臨終の床での信夫の

献身的な看病振りをも取り上げています。

◆あはれなる後見ゆるかも、朝宮に、祇園をろがむ匂へる処女 

(全集第21巻110頁)の歌の左註に、

「母のつきそひに、京都大学病院にゐた頃」とあるように、

この一連の京都作詠のとき、信夫は、母の看病のため病院に泊り込み、

母のしもの世話をいっさいしたという。

あれほど女性に対して異常なまでの潔癖と嫌悪とを抱いていた信夫が、

折口家の人々から、「さすがは信さんだ」と感動の言を吐かせたのも、

生みの母なればこそのことであろう。

 

「生みの母なればこそ」とあり、

「木津折口家」にあっては、ことさら折口家の人々からの感動の言を取り上げたのには、

ある「憶測」を払拭する意図が働いたとも考えられます。

そのような折口には、叔母を母と重ね合わせた歌があります。

これまた「木津折口家」からの引用です。

◆母の死*(大正7(1918)2月8日)に帰阪して喪に服しているときに詠まれた

次の歌も、叔母を通して、

もはや還らぬ生みの母のありし日を恋うているのだと思う。

若げなるおもわは、今は とゝのほり、叔母のみことの 母さびいます

 

「おもわ」は「面わ」で顔の輪郭であります。

冒頭に「神さぶる」の「さぶ」と同じ語が

折口の歌に叔母の形容として用いられていると予告したのは、この歌です。

折口が叔母とダブって見たのは生みの母でした。

動詞をつくる接尾辞「さぶ」を下接する「神さぶ」の用例は

折口信夫『万葉集辞典』初出1919年1月の「さぶ」の項に次の記述があります。

 *『万葉集辞典』:「万葉集辞典」『折口信夫全集11』1996年、中央公論社、

初出1919年1月、文会堂書店

◆ば行上二段。(中略)其様に似て見えるの神さぶの類もあるが、

多くは其に似つかはしいといふ意である。

処女さぶ・翁さぶなど皆、其である。

決して其めかすのでなく、処女としての行動、翁としての行動の適応してゐるのである。

 

折口『万葉集辞典』初出1919年1月は、

母の喪中歌「若げなる」歌と近接する時期であります。

何気ない15歳若い叔母の顔立ちに、折口は生みの母の俤を見たのです。

叔母の俤に見た「母」とは折口にとって、いったい何であったのでしょう。

初出1924年9月*「最古日本の女性生活の基調」の記事に

「おつかさん」なる語が見えます。

 *「最古日本の女性生活の基調」:「最古日本の女性生活の根柢」『折口信夫全集2』、

1995年、中央公論社、初出1924年9月『女性改造』

第3巻第9号「最古日本の女性生活の基調」

◆古くから祖の字を「おや」と訓まして、両親の意でなく

「おつかさん」の意に使ふ事になつて居るのは、

字は借り物だが、語には歴史がある。

母を専ら親とも言ふのは、父に親しみの薄かつた幼児の用語を、

成長後までも使うた為である。

 

「母を専ら親とも言ふ…」と発表したのは、1924年9月のことです。

◆私は、大正9*(1920)年の春の国学院雑誌に

「妣ハヽが国へ・常世トコヨへ」と言ふ小論文を書いた。

其考へ方は、今からは恥しい程合理式な態度であつた。

其翌年かに、鳥居龍蔵博士が「東亜の光」に出された「妣の国」と言ふ論文と、

併せて読んで頂く事をお願ひして置いて、

前の論文の間違うたところだけを、訂正の積りで書く。

 

*この記事の初出は1924年4月6月7月です。

*この記事:「信太妻の話」『折口信夫全集2』、1995年、中央公論社、

初出1924年4月6月7月『三田評論』320・322・323号

「母を専ら親とも言ふ…」と発表する直前に、

自らの「妣の国」の訂正を唱えていたのは折口自身です。

折口にとって「大正9*(1920)年の春の国学院雑誌に発表した

「妣が国へ・常世へ」と言ふ小論文」、

「小論文」と述べた1920年「妣の国」は、いったい何であったのでしょうか?

18年後の1938年9月「やまと人の物語」に次の記述があります。

 *「やまと人の物語」:「古典に現れた日本民族」『折口信夫全集5』

1995年、中央公論社、「やまと人の物語」

初出1938年9月『文藝春秋』第16巻第15号

◆日本民族の中心となつた種族は、何所から何処を経て来たものであらうか。

其よりも、私としての問題は、

文学の上に、どれほどの為事を残したらうか、と言ふことが繋つて居る。

 

此処では自らの著作を「文学」の上での仕事としています。

引用を追いながら、論調の変化を見届けることにします。

◆吾々の祖先―(中略)―は、初めに、妣の国を海の彼方に観じて居た

 さうして常に、現実は其処から遠ざかると共に、

 想像の世界においては、愈益恋ひ求めて居た。

 だから須佐之男命に託して、其永遠の思慕が表されて居る。

 「青山を枯山なす泣き枯し、海河は悉に泣き乾す」までに焦れたのは、

 古代のやまと人自身である。

 

「妣の国を海の彼方に観じて居た」のを「想像の世界」とし、

スサノヲに託されたのを「永遠の思慕」としています。

その「永遠の思慕」とは何方への思慕でしょう。

引用を続けます。

◆而も妣の国の遠きことは、

 根の堅洲国の如く死を以てする外到ることは出来ない事は知つて居たのである。

 吾々の祖先のあくがるゝ所は、海表の彼岸に、

 母の俤を浮かべることであつた。

 だから三毛入野命―又、稲氷命―は、熊野の海の荒るゝを恨んで、

 妣の国へと志して海原に入らせられた。

 

「永遠の思慕」は「母」への思慕と読み取られます。

写真図 「思慕」のイメージ

 

1920年「妣の国」は1924年「信太妻の話」に自ら「小論文」を書いたと記したものの、

1917年紀行文によりますと、「妣の国へ 常世へ」は、「創作」の題目でありました。

実母こう逝去から20年を経た1938年9月「やまと人の物語」に至っての記述からして、

1920年「妣の国」は畢竟、実母を超える叔母への思いを

スサノヲの「母の俤」思慕に仮託した物語と私は考えます。

これにて折口「妣の国」物語論とします。

 

究会代表

新いちょう大学校講師 田野 登