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晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。

2025年11月29日(土)は大阪あそ歩「市岡尻無川」コースの実施日です。

いつもどおり2週間前の下見に、11月15日に歩き、

1年前とのマチの変化を追ってみました。

先ずはJR大阪環状線弁天町駅。

大阪・関西万博のアクセスポイントとして

中央南口となりました。

写真図1 弁天町駅構内地図

集合場所は、この1階中央南口改札口前です。

今までの集合場所の南改札口は閉鎖されています。

写真図2 1階中央南口改札口前

弁天町駅界隈の地名に注目。

弁天町はもとより、波除、歩道橋を渡れば市岡元町。

「市岡」は広く分布していましたが、今や如何?

地名、施設名は町の地層です。

弁天町の弁天は市岡新田会所に祀られていた水の神・弁財天が起点です。

海を埋め立てて出来た新田から「歴史」が始まる此の地です。

市岡元町公園の竹藪下から坂道を確認。

写真図3 市岡元町公園の竹藪下から坂道

この坂は戦後の盛土によるものです。

昭和25年のジェーン台風時の水漬きの写真をご覧に入れます。

戦災に次いで水災に見舞われた此の地の「歴史」を話します。

「みなと通」を西進。

盛土の地に緑を花をと植えられた磯路の桜通りの現況を一緒に見ましょう。

写真図4 磯路の桜通りの現況

すっかり桜並木も伐採され根こそぎ抜かれた跡に

コンクリートが詰められています。

秋なら桜もみじの紅葉が美しかったものです。

都市近郊の遊園地「市岡パラダイス」跡を訪ね、

ここでは昭和初期の「都市伝説」を語ることにしましょう。

みなと通の夕凪の交差点を南進して、西に行き三先天満宮、福崎住吉社、

臨港貨物船の廃線跡を確認して甚兵衛渡船場へ。

この渡船場を遡り「甚兵衛小屋」という尻無河畔にあった

料亭が描かれた錦絵をご覧にいれます。

風光明媚な水際であり秋なら鯊釣りに屋形船が繰り出され

『摂津名所図会』には「鯊釣りや水村山郭酒旗の風」を

画賛として載せられる名所でした。

今日の趣きや如何?

写真図5 甚兵衛渡船場からの眺め

尻無川水門の間に京セラドーム大阪のドームが見えます。

渡船「きよかぜ」は、港区福崎から対岸の泉尾まで往復しております。

水上から都心部を束の間、眺めるのも一興かな?

本番は渡船客を見送り、お迎えするだけにします。

待合所には日本船舶工学会から授与された「ふね遺産認定書」が飾られています。

「水都大阪の交通を支えてきた渡船システム」として

大阪市建設局殿大阪市の渡船が

「ふね遺産第四十号」に令和4年9月に認定されたのです。

暫く尻無川右岸道路脇を一列縦隊で遡ります。

廃屋と思いきや石屋の浜であったり、浜納屋の跡があったり、

水都を裏支えしてきた生業を偲ぶ「水都の奇観」です。

程なく「市岡中学」の校歌に歌われた

「秋尻無の櫨紅葉」に出くわします。

明治の時代の櫨の木が川沿いに植わっていた写真をご覧にいれます。

今日は数株が残存しています。

写真図6 尻無右岸の櫨もみじ

櫨の球を取って、その油を搾って蝋にしたようです。

電灯以前の暮らしが偲ばれます。

瓦屋の倉庫が見え出すところで、堤防下の町に出ます。

写真図7 堤防上の道路と堤防下の道路

ここでも落差に注目します。

堤防下の町は、大正時代、波静かな尻無河畔の淡路の南淡から

渡ってきた瓦屋で賑わいました。

まさに市岡浜は瓦屋の町でした。

その一方、工場の立地にも相応しく、現在、ビール工房が営業している場所は、

煉瓦建ての器械工場が建っていました。

写真図8 ビール工房「地底旅行」

南市岡を東西に通るのは繁栄商店街です。

生業の調査で聞き書きした魚屋、花屋はありません。

拙著『水都大阪の民俗誌』2007年、和泉書院に

「街角の花屋(港区南市岡)は都市生活者に季節の変化を感じさせる」と

記した街角の花屋の場所がこれです。

写真図9 街角の花屋の場所

それでも「花出店」の貼紙があり、月に9日の出店があるようです。

仏花などお供えする人たちが住んでおられるのを想像します。

「秋尻無の櫨紅葉」の今秋を見届けに歩いた半日でしたが、

町に秘かに暮らし続ける人たちの息づかいを感じ取るツァーとなりました。

大阪あそ歩「市岡尻無川」コースのお申し込みは、

  ↓アクセス

 https://www.osaka-asobo.jp/course293.html

小人数でじっくり確かめながら歩きたいものです。

リピーターを歓迎します。

 

究会代表

大阪あそぼ公認ガイド 田野 登

今週の≪暮らしの古典≫は152話≪トッテラチンチン≫です。

何かの音の擬音です。

今から8年前の2017年11月7日(火)

新いちょう大学校「民俗学から見る大阪」第1講で

「大阪のお地蔵さんの世界」を話しました。

講義が終わって間もなく次の質問がありました。

「折口信夫が「東京のスイ」と述べているのは

 間違いなのではありませんか?」とのことでした。

レジュメには拙著『大阪のお地蔵さん』渓水社1994年の

冒頭を引用した箇所を載せました。

◆大阪出身の国文学者・折口信夫は

 自らの故郷・大阪の暮らしを

 「野性を帯びた都会生活」と述べている。

 東京は、趣味の洗練・粋を誇り

 三代住めば江戸っ子というのに対して大阪は、

 二代目、三代目で家が絶え、つねに新興の気分を持ち、

 洗練されない趣味を持ち続けているとも述べている。…

たしかに「東京は、趣味の洗練・粋を誇り」と

述べていると記しています。

「粋」は、むしろ上方における美意識やないの?という質問です。

この指摘は、大変、おもしろいところを衝いておられ、

その当時、私のブログに≪折口言説「東京のすゐ」≫の標題で

4回に分けて掲載しました。

  ↓アクセス

 https://ameblo.jp/tanonoboru/entry-12327424174.html

≪折口言説「東京のすゐ」(1):2017-11-11 10:47:03≫

 

今回、新いちょう大学校で4回の講義「大阪人・折口信夫」の

「まとめ」の導入として、今一度、この記事を確かめたいと思います。

なぜ、私が拙著『大阪のお地蔵さん』冒頭に折口言説を据えたのかを、

当時の地蔵盆調査の記録をもとに振り返ってみることにします。

折口の引用箇所を挙げます。

初出は1918年6月『アララギ』第1巻第6号「茂吉への返事」であって、

『折口信夫全集29』1997年、中央公論社から中略を交えて一文を載せます。

その一文は229文字、そこから(中略)65文字を除いて挙げます。

挙げた箇所に「すゐの東京」が見られます。

◆三代住めば江戸つ子だ、といふ東京、家元制度の今尚厳重に行はれてゐる東京、

趣味の洗練を誇る、すゐの東京と、二代目・三代目に家が絶えて、中心は常に移動する

大阪、(中略65文字)洗練せられざる趣味を持ち続けてゐる大阪とを較べて見れば、

非常に口幅つたい感じもしますが、比較的野性の多い大阪人が、

都会文芸を作り上げる可能性を多く持つてゐるかも知れません。…

 

「すゐの東京」を発見しましたでしょうか?

この一連の文脈の中で、『大阪のお地蔵さん』では

「東京は、趣味の洗練・粋を誇り」と綴ったのでした。

大阪に「野性」を認める折口は、引用文の先に次のように

「上方の粋」を取り上げています。

◆西鶴や近松の作物に出て来る遊冶郎の上にも、此野性は見られるので、

漫然と上方を粋な地だといふ風に考へてゐる文学者たちは、

元禄二文人を正しう理会してゐるものとは言はれません。

 

折口は、この一文で「漫然と上方を粋な地だ」という文学者を批判したうえで

この段落の末を次の一文で結んでいます。

◆江戸の通に対して、大阪はあまりやぼ過ぎる様です。

 

江戸の「粋」「通」に対して、大阪の「やぼ」が挙げられています。

「やぼ」は「野暮」の当て字で知られる概念です。

三都に詳しい*『近世風俗志』は、

「すい」「いき」「つう」「ぶすい」「やぼ」を取り上げています。

 *『近世風俗志』:喜田川守貞著・宇佐見英機校訂、1997年、岩波文庫

『近世風俗志(守貞謾稿)二』守貞謾稿巻之十(女扮上)

◆また俗間の流行に走る者を京坂に粋と云ふ

 (音 すい。昔は三都ともにこれを称す。

 けだし昔は水字を用ふ。これに反すを月と云ふ。

 これ花街の方言なり。それを粋者と云ふ)。

江戸にてこれを意気と云ひ、

 その人を通人と云ふ。

 また今世、江戸婦女の卑なれども野ならざるを

 婀娜(その人をあだものと云ふ)と云ひ、これに反すを不意気

 あるいは野暮(やぼ、野夫の訛か)

 京坂にては不粋と云ふ。

 

京坂の「粋」が江戸では「意気」(「いき))と云い、

「通(つう)」とも云うとあります。

江戸では「意気」ならざるを野暮(やぼ)と云うとあります。

*『日本国語大辞典』「やぼ」の項に次の諺が挙げられています。

 *『日本国語大辞典』:『日本国語大辞典』第2版第13巻、小学館2002年

◆やぼと化物(ばけもの)は箱根(はこね)から先(さき)

野暮と化物は箱根から先の西にはいるが、

東の関東にはいないの意で、江戸っ子の通を誇っていう語。

 

大阪では「不粋」というべきところです。

『大阪のお地蔵さん』では地蔵盆での踊りを次のとおりに記述しました。

写真図 1985年の西区九条の北見地蔵尊での地蔵盆踊り風景

◆同*(大正)区の千島の子育地蔵尊では、聞き書きをする際に、

あるお婆ちゃんから次のことを聞いた。

「昭和25、6年頃の地蔵盆は、夜通しで地蔵さんの番をした。

一人のお婆ちゃんが三味線を弾いて、一軒前にひとりは出て、

地蔵さんの前の道路で踊った。

「トッテラチンチン、それ来たチンチン、凧揚げて・・・・焼き茄子・・・・」と

歌いながら踊った。

最終日の24日は変装して踊った。

うどん屋の奥さんがお白粉を塗って男役をし、

私は女役だった。大人達男女、へそを出して踊った。

 

タイトルの≪トッテラチンチン≫が出ました。

三味線の奏でる音の口三味線でした。

往時の大阪では、地蔵さんの祠の前では、幾らでも

芸達者な方々が三味線で「堀江盆踊唄」を弾いているのでした。

この乱痴気騒ぎに「やぼったさ」を感じ、

折口の言説「大阪はあまりやぼ過ぎる様」に乗せられて、

格式を大事とする東京なら、あり得ないと即断したのです。

「粋の東京」と書き込んだのは、このような風潮のある此の地を自嘲するとともに

彼の地を揶揄する気持ちからだったのです。

今、思えば、此の地の気取らない風土に「野卑」を感じたのです。

次回は、今回取り上げました折口1918年「茂吉への返事」全般を見わたしたうえで

折口による「大阪人観」に言及することにします。

 

究会代表

新いちょう大学校講師 田野 登

2025年11月8日(金)昼下がりから宵にかけて

折口信夫に関する講座の取材がてら大阪の街を歩き、「秋色」を探ってきました。

暦の上での冬の始まり「立冬」は前日の11月7日(金)でしたが、

はたして「秋」や何処?

講座の取材の件は、北区大淀南(北浦江)の「王仁神社」の扁額の「王仁」の文字と

表紙にあしらった大正末から昭和初期の千日前・竹林寺前の現在の確認でした。

大阪の「キタ」と「ミナミ」を大阪メトロ「千日前線」の

野田阪神経由で探訪しました。

まずJRおおさか東線終点「大阪駅」で降り立ち、目指すは「グラングリーン大阪」。

夏場には水が張られている水盤や如何?

立冬を過ぎての、この日も子どもたちの歓声が弾けていました。

写真図1 「グラングリーン大阪」の水盤

パパママは芝生でごゆっくり、男女の二人連れもいたかな?

まだ出来て間もないのか「緑」は斑で「秋色」とは程遠い。

「いちょう並木」の「黄葉」を見そびれて残念。

「緑」の少ない大阪では、ご家族にとっては、目の行き届く安全な場所での

小さな「行楽」なのでしょう。

この新設された広大な緑地公園ですが、

施設内の説明ボード「大阪・うめきたの歴史とうめきた公園」には見えないのは、

江戸時代から明治にかけての「梅田墓」です。

貨物線西梅田踏切跡付近に立って、フェンス越しに覗きワンショット。

写真図2 「グラングリーン大阪」南西角の梅田墓地跡

盛土の手前に草むらがあり、枯草も見え、冬モードかと思いきや「緑」も見えます。

めざすは大仁(北区大淀中)を経て、

浦江八坂神社(北区大淀南)の末社「王仁神社」です。

写真図3 「浦江八坂神社」参道

ABC放送が大淀南にあった時代、「桜」の中継地ともなった浦江公園です。

ちらほら見える桜紅葉。

浦江・大仁コースの本番12月3日での「錦秋」を祈ります。

懸案の末社「王仁神社」は、これです。

写真図4 王仁神社全景

「賢人」として百済国から遣わされたとの伝説のある方です。

「素盞烏尊神社(通称・浦江八坂神社)」HPの「末社紹介」には

「遙か百済からこの浦江の地にたどり着いた」となっています。

 https://www.yasakasan.com/profile5.html

往時、大陸・半島が先進地であり、

この難波・河内の地に多くの文物・技術が舶来したことの

証左として「王仁博士招聘」の伝説が発生したのやなかったの?

「賢人の竹林」に擬えての一群れの竹は秋気に映えて聊か色づいています。

 

ガードを潜れば福島区。

「浦江のお稲荷さん」妙寿寺(福島区鷺洲)の藤棚や如何?

写真図5 妙寿寺の藤棚

孟夏の藤色の花もさるものながら、秋の「黄葉」もまた一興。

通称「浦江の聖天さん」了徳院池畔の桜「紅葉」も見そびれました。

妙寿寺から野田阪神までの「疎開道路」(九条梅田線)の街路樹に

木の葉の色づきは見出せませんでしたものの、

綿雲の空に秋色を感じつつ大阪メトロ「野田阪神駅」へ向かいました。

千日前線に乗車して「なんば駅」で降車しました。

午後5時をまわり、早や日も傾きぬ。

この時点で作戦変更、地下街のウィンドウに「秋色」を求めんと。

されども如何ともしがたく、電光の宣伝が目に入りました。

写真図6 難波地下街の電光掲示板の「紅葉」

ライトアップされた紅葉は「信貴生駒スカイライン」の光景でした。

「もみじライトアップ2025

点灯期間11/20(木)~12/15(月)/18:00~22:30」とあります。

紅葉は「箕面の滝」ばかりではありません。

阪奈の稜線を行く観光道路にもあるのですね。

11月下旬のイベント情報です。

のこのこ地上に出ました。

日も暮れた中で「秋色」を求めることになりました。

服装の色のチェックです。

「千日前」となれば法善寺水掛不動尊は、毎度の賑わい。

今更ながらインバウンド客の多いこと。

写真図7 法善寺の参拝客

服装を注視、後ろ向きの女性はトレンチコート。

横向きで眼鏡を掛けマスク姿の高齢の女性は褐色の柄物の上着。

これから先はインバウンド客らしき観光客です。

QRコードをスマホで撮る女性、香炉に線香をたてる男性、

右肩から小さなバッグを掛けている白いシャツを着た若い男性。

いずれも欧米系のインバウンド客のようえで半袖姿です。

摂氏20度は下回る中で、

このようなラフな夏の服装で寒くはないのでしょうか?

懸案の「竹林寺」の裏通りから千日前商店街に出ました。

写真図8 千日前商店街の通行人

「大正末から昭和初期の千日前・竹林寺前」の現在はこれです。

真正面は道頓堀商店会加入の飲食店です。

ここでも通行人の服装のチェックをしましょう。

ここにもインバウンド客らしき人の軽装を散見します。

この人たちのテンションは、高いのでしょうか?

秋の夜寒を気にかけていないのかも?

通りを行く人の服装の色合いは圧倒的に「黒」です。

「夏」から「秋」を通り越して「冬」です。

南に進み町名は「中央区千日前」から「中央区難波千日前」に変わり

「なんばグランド花月」が左側(東)に見えます。

写真図9 「なんばグランド花月」

まだら模様の大阪の秋

入口は唐破風を模しています。

服装は千日前商店街で見たものと、それほどの違いはございません。

この日は18:00閉館の閉館10分前に「なんばグランド花月」真向いの

「大阪府立上方演芸資料館 ワッハ上方」を訪ねました。

「万歳」から「漫才」への過渡期に生きた砂川捨丸師が60年間

使った「鼓」を観覧し、許可を得て写真撮影しました。

思わぬ収穫を得ました。

秋色を探索しての街歩きは、名状しがたい秋で「まだら模様の秋」とします。

 

究会代表

新いちょう大学校講師 田野 登

このシリーズの最終回≪暮らしの古典≫151話は

≪人の扮した神≫です。

最終回に際し「初春のまれびと」の冒頭を改めて掲げます。

◆乞食者はすべて、門芸人の過程を経て居ることは、前に述べた。

歳暮に近づくと、来む春のめでたからむことを予言に来る類の

神人・芸人・乞食者のいづれにも属する者が来る。

 

「神人・芸人」を終えましたので最後の「乞食(者)」を浚えることにします。

『近世風俗志』の「乞食」を浚えましたところ、

「節季候(せきぞろ)」に見つかりました。

節季候 せきぞろと訓ず。昔は三都ともこれある由なり。

今世は大坂にこれなく、江戸にはこれありて、

毎歳臘月中旬比より、非人乞食等二、三人各々紙の頭巾をかむり、

白紙の前垂に松竹梅等を描き、小形の太鼓を打ち、さゝらをすり、

「せきぞろござれや、ハア、せきぞろめでたひ/\」と最も喧しく

戸前に呼びて銭を乞ふなり。繁多の時節故、衆人困りて銭を与ふ要とす。

 

節季候稼業の者を「非人乞食等」としています。

「戸前に呼びて銭を乞ふ」とあって、乞食者でありますが、

「小形の太鼓を打ち、さゝらをすり、

「せきぞろござれや、ハア、せきぞろめでたひ/\」と」あっては、

このパフォーマンスは芸人でもあります。

テキスト「初春のまれびと」では、先に挙げた「神人・芸人・乞食者」に

続く一文に「節季候」が見えます。

◆「鹿島のことふれ」が廻り、次いで節季候(セキゾロ)・正月さしが来る。(中略)

 此中、節季候は、それ等より形式の自由なだけ、古いものと言はれる。

其姿からして、笠に約束的の形を残してゐた。

此は、近世京都ではたゝきと言ふ非人のすることになつて居た。

たゝきの原形だと言はれてゐる胸叩(ムネタヽき)と言ふ乞食者は、

顏だけ編み笠で隠して、裸で胸を叩きながら「春参らむ」と言うたとあるから、

「節季に候」と「春参らむ」とは、一続きの唱へ言であつたことが知れる。

 

次に続く「胸叩(ムネタヽき)と言ふ乞食者」の唱える章句「春参らむ」と

一続きの唱え事とし、このパフォーマンスをする者も乞食者に連なります。

更に「初春のまれびと」の続きで「乞食者」を浚えました。

「(鳥追ひ)乞食者にも*芸人にも落ちきつて居ないものである」に

続く記事を挙げます。

◆女で尚、ある時期を主とする乞食者に「姥等(ウバラ)」がある。

此は、白河に居た者で、師走に專ら出る者であつた。

上に列挙した者は、大抵門口から還るのだが、

萬歳・桂女は、深く屋敷に入り、座敷までも上つて居る

 

「姥等(ウバラ)」を乞食者として挙げ、

この者は、「深く屋敷に入り、座敷までも上つて居る」萬歳・桂女より

一段、   身分が低く「門口から還る」乞食者と読み取られます。 

このような「乞食者」をも「神」と見なすのが折口の思想であります。

それは「神に扮した人」でなく「人の扮した神」なる語句によって

明らかであります。

ところが、その「人の扮した神」は、

「国文学の発生(第三稿)」中、唯一ヵ所、見えるだけです。

 

それは次の件です。

◆まれと言ふ語の溯れる限りの古い意義に於て、

最少の度数の出現又は訪問を示すものであつた事は言はれる。

ひとと言ふ語も、人間の意味に固定する前は、

神及び継承者の義があつたらしい。

其側から見れば、まれひとは来訪する神と言ふことになる。

ひとに就て今一段推測し易い考へは、

人にして神なるものを表すことがあつたとするのである。

人の扮した神なるが故にひとと称したとするのである。

 

たしかに「人の扮した神」がみえます。

神である「まれびと」を「ひと」と称した所以を陳べている件であります。

引用を続けます。

◆私は此章で、まれびとは古くは、神を斥す(サす)語であつて、

とこよから時を定めて来り訪ふことがあると

思はれて居たことを説かうとするのである。

 

この記述は、「まれびと」なる語を遡れば「神」となるというのです。

「此章」とは「一 客とまれびとと」であります。

最終章でなく第1章なのであります。

いくら帰納しても「神」が見えないはずです。

最初の章にあって、それが前提として具体として展開しているのです。

 

折口の思考法は演繹法です。

初めに「神ありき」なのです。

然る後に人による扮いありなのです。

「まれびと」が「神」であるのを前提に、さまざまな神人・芸人・乞食者の

稼業を展開されました。

写真図 門付芸人

本ブログでの徒労を徒労としません。

折口信夫の論法を知る機会を得たことを良しとします。

ただ、気になることが一点あります。

それは、この論文の発表が遅れた事情です。

そのことに関しては柳田国男が関与しているとの記事が、

『折口信夫全集1』1995年「解題」にみえます。

◆脱稿については、『古代研究』民俗学篇2付載の「著作年月一覧」に

「昭和2年10月草稿」とある。

雑誌発表が遅れたのは、

掲載誌『民族』(大正14年11月創刊、昭和4年4月休刊)の

責任者柳田国男からの掲載拒否の指示があったためで、

柳田が雑誌編集から手を引いた時点で掲載されたことを、

その編集に携わっていた岡正雄が回顧談で明らかにしている

(『季刊柳田国男研究』創刊号、昭和48年2月)

 

柳田が引っかかったのは「まれびと」を「神」とする点であったようです。

これがネックとなった「折口学」を蔑ろに私はしません。

私は、折口が「神」と観た「まれびと」は幻視として、

この国に永く根付いている観念と考えます。

そこが「折口学」の危ういところであり、魅力でもあります。

「折口学」の原点に立ち戻ったところでシリーズ「初春のまれびと」を終えます。

 

究会代表

新いちょう大学校講師 田野 登

 

今朝、マンションの郵便受けを開けました。

高校の同級生の奥さんからの喪中はがきでした。

咄嗟に思ったことは、

彼の両親なら疾っくに亡くなられているのに…。

勘違いでした。

ご本人が5月に他界しているのでした。

思えば、後期高齢者である、我が身ゆえ

「ゴーンナザデイ」友たちが他界して逝く歳なんや。

昨日、郵便局に会社への届けを郵送しに出かけました。

我輩と同じ年頃の男性が年賀はがきを買いに来ていました。

「9枚下さい」「ハイ900円いただきます」とのやりとり。

900円に、ちょっとした驚き。

1枚100円なんや、切りのええ値やけれど高くなったもんや。

9枚には、そんなもんなんや、

「ゴーンナザデイ」の日々を送る身なんやと

今、感じ入っています。

年々、友人からの賀状が減り続けています。

職業柄、今年も同年輩の男性の10倍は書きます。

年々、減って昔の3分の1です。

今年の賀状にも本年を最後に云々とあり、

「年賀状仕舞い」が数通ありました。

「ゴーンナザデイ」の日々にあって寂しいご時世です。

昨日、罹りつけの医者に行きました。

足の浮腫みを心配して1カ月の前倒しで

血液検査を先月してもらいました。

「腎臓にも問題ありません、運動不足のようです」とのこと。

エッ?週二日、道路に立っての仕事をしているのに…?

どうやら、

間の日がパソコンに何時間も向かっているせいらしい。

「大阪人・折口信夫」の4回講義を2週間前に控えて

パワーポイント作成に大童。

福島区のコミュニティサロンでの

「なぜ正月はめでたいか」は12月第一土曜。

合間を縫って

年賀状作成に大阪市内の写真を撮りに行かなぁあかん。

折口信夫ゆかりの地を歩くとするか…?

年を越すのが年々えらくなって来ています。

「ゴーンナザデイ」の日々、

亡き友の訃報を知るのも

年賀状の仕来りがあってのこと。

変わりゆく日々に、

亡き友の友人に電話ならぬメールでも送ろうか?

浦江に帰って注連縄を掛けに行かなぁと思う日々を過ごします