晴耕雨読 -田野 登- -4ページ目

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。

今週の≪暮らしの古典≫156話は「明けの春」とします。

ここしばらくは、折口を終えて「春」について考えます。

拙著『水都大阪の民俗誌』和泉書院2007年から

宮本又次「生い立ちの記」を引きます。

いきなり「春」が出てきます。

 

◆十日戎は、商家の子供にとっては、

 初春の楽しみの一つでもあった。

 「十日戎は午後三時頃に店をしめて、早仕舞になる。

 父につれられて、

 『えべっさん』におまいりした。

 父と母とが一緒になって外出することは

 あの頃はめったになかった。

 世間体がうるさいといった。(中略)

 『エベッサン』では竹の梯子や鳶口をかってもらった。

 お多福(おたやん)の飴や金太さんの飴、ねじあめもかった。

 宝恵かごの出るのを追っかけて見たりもした」とある。…

 

「十日戎は…初春の楽しみの一つ」とあります。

十日戎の頃、1月10日前後となれば夜明けが一年で一番、

夜明けが遅い時季です。

その時節に「春」を据える「初春」とは?

お正月気分の残る時季なのですよね。

 

気象庁の気象庁の「季節を表わす用語」に当りました。

https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/yougo_hp/toki.html

「時に関する用語」の「季節を表わす用語」の説明に

「春 3月から5月までの期間」とあります。

1月は「12月から2月までの期間」で「冬」です。

 

「初春」の「春」を言葉の問題として考えてみました。

語末に「春」の付く単語を引くには、

*『逆引き広辞苑』が重宝です。

『逆引き広辞苑』1992年、岩波書店「はじめに」には、

次の記述があります。

◆本書では、『広辞苑第四版』の全項目の見出し・表記形の

 逆順排列とは別に、

 日本語の語構成の上で重要な語末要素を

 約六千*(6000)選定し、

 それぞれについて、

 その語末を共通にする語群を囲み記事として一覧表示した。

 日本語の単語は、

 語の末尾部分が品詞を規定するばかりでなく、

 意味内容の中枢部として働くことが多い。…

 

日本語の単語では、先ず語末に着目することです。

「語の末尾部分が…意味内容の中枢部」とあります。

「初春」の「春」に当りました。

「るは」を繰ります。

20項目ヒットしました。

◆明けの-/梅にも-/梅の-/老いの-/暮れの-/

 今朝の-/心の-/小-/竹の-/常(とこ)春/

 仲の-/初-/花の-/プラハの-/水の-/

 三(み)春-/行く―/宵の-/来(らい)-/

 我が世の-

 

「初-」は「初春」です。

『広辞苑 第七版』 ©2018 株式会社岩波書店では、次の記述があります。

◆春のはじめ。新春。新年。〈[季] 新年 〉。

万葉集(20)「―の初子の今日の玉箒(はばき)」

 

この場合の「初春」は「春のはじめ」というよりは「新春。新年」です。

写真図 年賀状図案の「初春」

春の初めに咲く梅の花が添えられています。

「初春」という言葉には、来るべき「春」を

あらかじめ祝すという予祝の意味が込められています。

この「初春」という言葉は、

今回のタイトルの「明けの-」にも見えます。

◆あけ‐の‐はる【明けの春】

初春。年のはじめ。〈[季] 新年 〉…

 

「新年」正月一日なら、これから二十四節気の「小寒」を控えて

寒暖を感知する肌感覚の「春」ではありません。

とはいえ、「年のはじめ」は、日没時刻が遅くなり始め、

春を感じることもあります。

「国立天文台 > 暦計算室 > 各地のこよみ > 大阪(大阪府) >」で

今年から来年にかけての日没時刻を確かめました。

https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/dni/2025/s2812.html

 2025年12月10日、11日

 10…16:47…

 この日が日没の「底」から転じる時です。

 2026年1月10日

 10…17:05…

 

十日戎の1月10日は、日没の「底」から18分も遅くなっていますので、

「初春」の光に「春」を感じることも宜なくもありません。

 

もう一度「るは(春)」を見わたします。

「水の春」なんぞ季語です。

「水がなまぬるく春らしくなること。〈[季] 春 〉」とあります。

厳しい冬から抜け出して心も和みます。

いま少し、「春」の時季に拘りますと

「明けの春」に対しては「明けの春」があります。

「行く春」は「暮れてゆく春。過ぎてゆく春。晩春」とあります。

「晩春」となれば「老いの春」にも挙げられていますが、少し意味深長です。

第一義は「老後の春」です。

「老いらくの恋」でもなさりそうです。

「春」は気分の問題です。

「小春」はほっこりとした女性を想像しますが、

「小春日和」の「小春」です。

「(暖かで春に似ているからいう)陰暦10月の異称。〈[季] 冬 〉」とあります。

「心の春」には「春のように陽気でのどかな心」ともあります。

 

豪放なのは「我が世の春」です。

「時流に乗って、何でも思いのままにできる得意の時期。

絶頂の時期」とあります。

平安時代の貴族の傲慢を「春」に譬えているようで

めでたい「春」もげんなりします。

次回は今回の「春(はる)」でカバーし切れなかった「春」が

「春(しゅん)」には見えます。

春には色気がありますよね。

 

究会代表

新いちょう大学校講師 田野 登

前回、折口信夫から「茂吉への手紙」の第15段冒頭に

「わたしは都会人で…野性を深く遺伝してゐる大阪人」とあるのを承けて

前回の結びに次のとおり記述しました。

◆次回は「大阪人・折口信夫」を俎上に載せます。

「大阪人が都会文芸を作り上げる可能性を持っている」に応えたか否かはともかく、

ある評者から「大阪人」と称された作者による

登場人物の大阪人ぶり」と照らすことにします。

この「評者」とは、フランス文学者で評論家の多田道太郎です。

織田作之助』(ちくま日本文学全集)1993年の巻末に

「オダサクはんのめでたいユーレイ」には、

「オダサクは大阪人…近松の伝統といえばいえなくもない根性を見る」とあります。

多田道太郎にあって「大阪人」は、織田作之助となります。

今回、そのオダサク『夫婦善哉』の作中人物「蝶子」「柳吉」に「大阪人ぶり」を探り、

折口の「大阪人」と照らすことにしました。

写真図 「夫婦善哉」じょなさんのイラスト

今更ながら折口の云う「大阪人」を検証しようとするのでしょう。

端緒は「江戸の通に対して、大阪はあまりやぼ過ぎる様」なる記述にあります。

≪暮らしの古典≫152話≪トッテラチンチン≫に『近世風俗志(守貞謾稿)二』巻之十

(女扮上) から次の箇所を引用しました。

   ↓アクセス

https://ameblo.jp/tanonoboru/entry-12946269790.html

◆また今世、江戸婦女の卑なれども野ならざる

 婀娜(その人をあだものと云ふ)と云ひ、これに反すを不意気

 あるいは野暮(やぼ、野夫の訛か)、京坂にては不粋と云ふ。

 

京坂におきましては、「不粋」はあっても「野暮」とは謂わないようです。

折口の云う「大阪はあまりやぼ過ぎる様」には、やっぱり違和感があります。

因みに『夫婦善哉』には「やぼ」「野暮」は検出されませんでした。

『夫婦善哉』から「不粋」「粋」を探ります。

「不粋」から始めます。

ア) 不粋な客から、芸者になったのはよくよくの訳があってのことやろ、…

イ) おきまりの会費で存分愉しむ肚の不粋な客を相手に、息のつく間もないほど弾かされ歌わされ、浪花節なにわぶしの三味から声色こわいろの合の手まで勤めてくたくたになっているところを、安来節を踊おどらされた。

ウ) が、間もなく蝶子は先刻の芸者達を名指しで呼んだ。自分ももと芸者であったからには、不粋なことで人気商売の芸者にケチをつけたくないと、そんな思いやりとも虚栄心とも分らぬ心が辛じて出た。自分への残酷めいた快感もあった。

 

ア)、イ)は芸者であった時代の蝶子に向けての「不粋な客」による遊興時での

気の利かない言動です。

ウ)は蝶子自らの雇用する芸者たちに向かって名指しで呼び、

客たちに遊興の場を白けさせた言動です。

「不粋」とあるのは、何れも遊里の事情に通じない言動であります。

これに対しての「粋」や如何?

 

エ)柳吉は白い料理着に高下駄という粋な恰好で、ときどき銭函を覗いた。

オ)名前は相変らずの「蝶柳」の上にサロンをつけて「サロン蝶柳」とし、蓄音器は新内、端唄など粋向きなのを掛け、女給はすべて日本髪か地味なハイカラの娘ばかりで、下手に洋装した女や髪の縮ちぢれた女などは置かなかった。

カ)蝶子も客の手前、粋をきかして笑っていたが、泊って来たりすれば、やはり折檻の手はゆるめなかった。

 

エ)にはルビ「いき」が振られ、柳吉の服装を「白い料理着に高下駄」を「粋な恰好」と

表現しています。

『広辞苑 第七版』 ©2018 株式会社岩波書店の「いき【粋】」に次の記述があります。

◆(「意気」から転じた語)

①気持や身なりのさっぱりとあかぬけしていて、しかも色気をもっていること

小説『夫婦善哉』に珍しく柳吉の晴れやかな恰好を、蝶子の眼差しと重ねて描写しています。

オ) の「粋向き」は、遊里に精通した趣味の傾向を指します。

カ)は、客の手前、遊興の雰囲気に相応しく振舞っていた蝶子が一転、

柳吉の件の浮気癖を嗅ぎつけて怒髪天を衝く場面であります。

そういった蝶子に「粋」を感じさせるのが次の描写であります。

キ)朝の間、蝶子は廓の中へはいって行き軒ごとに西瓜を売ってまわった。

「うまい西瓜だっせ」と言う声が吃驚するほど綺麗なのと、笑う顔が愛嬌があり、

しかも気性が粋でさっぱりしているのとがたまらぬと、娼妓達がひいきにしてくれた。

 

蝶子の売り声の綺麗さ、顔の愛嬌、それに気性の「粋でさっぱりしている」のを

挙げています。

蝶子は自ら芸者になり、ふしだらな柳吉に連れ添う中で、ヤトナ「雇仲居」への

転落、「サロン蝶柳」開店などなど浮沈を繰り返しながら、

ミナミ界隈を流離う一人の「大阪人」に見られる嗜みを

「やぼすぎる」とは、云い兼ねます。

「手紙」で斎藤茂吉に向かって

「わたしは都会人です。

併し、野性を深く遺伝してゐる大阪人であります。

其上、純大和人の血も通ひ、微かながら頑固な国学者の伝統を引いてゐます」と

名乗ったのは折口信夫です。

幼少期に大阪市中及び郊外に様々な人たちを見た「大阪人・折口信夫」です。

その後、大阪を発ち東京で学び住んだ折口です。

彼の「大阪人」への眼差しと感性だけで言い尽くされるものではありません。

東京住まいによる感性が被さっていると思われます。

 

「茂吉への手紙」の初出は1918(大正7)年6月、折口30歳の時です。

折口17歳で上京して13年が経ちます。

大阪人・折口信夫」の感性に揺らぎがあっても不思議はありません。

本論考は歌人間の18段落から成る私的な遣り取りの第9段にのみ見える

「野性的都会人」と理解される「大阪人気質」を対象に論究しました。

「○○人気質」は古今東西、しばしば取り上げられてきた話題です。

今回は折口の茂吉に向けての書簡の一段落の言説を取り上げました。

今日、公開されているものの「私信」であります。

そこには、折口と茂吉との関係性が反映していました。

バイアスのかかった「私情」を読み解くことによって「○○人気質」を

論究したことになります。

≪暮らしの古典≫では、152話から4回に亙っての連載でした。

12月16日の新いちょう大学校での講義では「大阪人・折口信夫」に「論」を

付けて話すことにします。

「大阪人」も「京のお人」も「江戸っ子」も多様であることは言わずもがなです。

 

究会代表 

新いちょう大学校講師 田野 登

前回の結びは「次回は先に挙げた第6段の「都会人」の不幸の深読みをしてから、

その先にあるテキストの「大阪人」を読み返すことにします」と予告しました。

今回≪暮らしの古典≫154話のタイトルは≪野の声≫です。

さて「誰の声」でしょう。

 

前回、1918年「茂吉への返事」18段中の第6段に

「あなた方は力の芸術家として、

田舎に育たれた事が非常な祝福だ、といはねばなりません。

この点に於て、わたしは非常に不幸です」を挙げ、

東京生まれの岡麓の歌「〽大八洲国いや広にいや高に春は桜の花さきほこる」を

「大ざつぱな概括的な解剖の足らぬ歌」と批評しておりました。

岡麓も「わたし」も、「あなた方」たちのような「田舎人」と違って

不幸な「都会人」なんでしょう。

第6段の記述からすれば、

「田舎人」にあって「都会人」に無いのは「力」なのでしょうか?

「力」の第1段から最終段までの分布は、以下のとおりです。

①0/15 ②:0/15 ③:0/15 ④:0/15 ⑤:0/15 ⑥:1/15 

⑦:1/15 ⑧:1/15 ⑨:0/15 ⑩:3/15 ⑪:0/15 ⑫0/15

⑬:0/15 ⑭:2/15 ⑮:1/15 ⑯:4/15 ⑰:1/15 ⑱:1/15

「力」の見える段落は⑥:1/15、⑦:1/15 ⑧:1/15、⑩:3/15、

 ⑭:2/15 ⑮:1/15 ⑯:4/15 ⑰:1/15 ⑱:1/15にも上ります。

見えないのは①~⑤、⑨、⑪~⑬です。

ちょうど半数の段落に「力」は見え、

「茂吉への返事」におけるキーワードの一つは「力」です。

とりわけアララギの歌人を「力の芸術家」と評しております。

歌における「力」とは何でしょう。

第7段から引きます。

◆田舎人が肥沃な土の上に落ちた種子とすれば、

 都会人はそれが石原に蒔かれたも同然です。

 殊に古今以後の歌が、純都会風になつたのに対して、

 万葉は家持期のものですらも、確かに、野の声らしい叫びを持つてゐます。

 その万葉ぶりの力の芸術を、都会人が望むのは、最初から苦しみなのであります。

 

此処に「万葉」における「野の声らしい叫び」を取り上げ、「万葉ぶりの力の芸術」と

言い換えています。

タイトルの「野の声」が出てきました。

「万葉」における「野の声」は「力の芸術」と読み取られます。

此の「わたし」の云う「力の芸術」について第16段に次の記述があります。

◆力の芸術といふ語は、あなたと、わたしとでは、

 おなじ内容を具へてゐないかも知れませぬ。

 わたしの「ますらをぶり」なる語に寓して考へた力は、

 所謂「たをやめぶり」に対したものです。

 

「たをやめぶり」は『広辞苑 第七版』 ©2018 株式会社岩波書店の

「たおやめぶり」【手弱女振り】に次のように記述されています。

◆女性的で温厚優和な歌風。万葉集の「ますらおぶり」に対して、

 主として古今集以降の勅撰和歌集で支配的な歌風を指す。

 

「ますらをぶり」「たをやめぶり」は、

時代の思潮から、ジェンダーによる違いであって、

都鄙「田舎と都会」の歌風の違いを指すものではありません。

「力の芸術」の「力」に対応する語に「野」を宛がえることは、

第7段の引用箇所の他に、第13段の記述においても可能です。

広島県生れで伊藤左千夫に師事した中村憲吉と「あなた=茂吉」を比べる記事です。

◆都会の誘惑には勝たれ相もなくて、

 而も立派に跳ねかへす先天的の強い郷土性をも兼ね具へてゐられました。

 あなたは、其から見れば極めて堅固な田舎びとであります。

 浄瑠璃よりも浪花節を愛せられるのも、あの声の野性を好まれたのでせう。

 

「田舎びと」の好みとする浪花節を「あの声の野性」と記述しております。

此の文脈における「野性」を『広辞苑 第七版』の「野性的」に求めました。

◆②粗野で、力強くたくましいさま。

 「野」に逞しさを認めては、如何でしょう。

 

テキストにおける「野」の分布を示します。

「野」の分布は、

①  0/6 ②:0/6 ③:0/6 ④:0/6 ⑤:0/6 ⑥:0/6

⑦:1/6 ⑧:0/6 ⑨:3/6 ⑩:0/6 ⑪:0/6 ⑫:0/6

⑬:1/6 ⑭:0/6 ⑮:1/6 ⑯:0/6 ⑰:0/6 ⑱:0/6

6例中3例が第9段に集中します。

第9段は「東京」と「田舎」ならぬ「大阪」を比べる段です。

◆三代住めば江戸つ子だ、といふ東京、家元制度の今尚厳重に行はれてゐる東京、

 趣味の洗練を誇る、すゐの東京と、

 二代目・三代目に家が絶えて、中心は常に移動する大阪、

 固定した家は、同時に滅亡して、新来の田舎人が、新しく家を興す為に、

 恒に新興の気分を持つてゐる大阪、

 その為に、野性を帯びた都会生活、

 洗練せられざる趣味を持ち続けてゐる大阪とを較べて見れば、

 非常に口幅つたい感じもしますが、比較的野性の多い大阪人が、

 都会文芸を作り上げる可能性を多く持つてゐるかも知れません。

 

「野性を帯びた都会生活」挙句の果ては「比較的野性の多い大阪人」と

「大阪人」を「野性的都会人」とでも謂わんばかりです。

「大阪人」は都会人でありながら、

逞しくエネルギッシュな人間とでもいうのでしょう。

写真図 「野性的都会人」で賑わう千日前見世物小屋

さらに第9段掉尾、「大阪人が都会文芸を作り上げる可能性を持っている」に

続く記述です。

◆西鶴や近松の作物に出て来る遊冶郎の上にも、

此野性は見られるので、

漫然と上方を粋な地だといふ風に考へてゐる文学者たちは、

元禄二文人を正しう理会してゐるものとは言はれません。

其後段々出て来た両都の文人を比べても、此差別は著しいのです。

此処に目をつけない江戸期文学史などは、幾ら出てもだめなのです。

江戸の通に対して、大阪はあまりやぼ過ぎる様です。

 

「大阪はあまりやぼ過ぎる様です」と、やんわりと記述しています。

「やぼ」の当て字は「野」を冠する「野暮」です。

それでは折口信夫自身や如何?

第15段冒頭を挙げます。

◆わたしは都会人です。

併し、野性を深く遺伝してゐる大阪人であります。

其上、純大和人の血も通ひ、微かながら頑固な国学者の伝統を引いてゐます。

 

「わたしは都会人で…野性を深く遺伝してゐる大阪人」とあります。

次回は「大阪人・折口信夫」を俎上に載せます。

「大阪人が都会文芸を作り上げる可能性を持っている」に応えたか否かはともかく、

ある評者から「大阪人」と称された作者による

登場人物の「大阪人ぶり」と照らすことにします。

 

究会代表

新いちょう大学校講師 田野 登

前回、「折口1918年「茂吉への返事」全般を見わたしたうえで

折口による大阪人観」に言及する」と予告しました。

なかなか「大阪人」まで達しませんでした。

今回は、その繋ぎでもあります。

今週の≪暮らしの古典≫153話のタイトルは「田舎」です。

いつもの『広辞苑 第七版』 ©2018 株式会社岩波書店(以下、『広辞苑』)で

「田舎」を検索しました。

◆いなか【田舎】 ヰナカ

①    都会から離れた土地。在郷(ざいごう)。ひな。地方。

万葉集(3)「昔こそ難波(なにわ)―と言はれけめ今都引き都びにけり」。

 

「都会から離れた土地」とは成程。

用例には『万葉集』が挙げられています。

「今都引き都びにけり」の「都」とは「難波宮」を指します。

何と「難波宮」以前の大阪を

「田舎」と歌われていたのを用例として挙げられているのです。

写真図1 難波宮(後期)の復元|大林組の広報誌「季刊大林」

本ブログでは「田舎」はどの箇所に出て来るのでしょう。

「田舎」や何処?

 

テキストとする1918年*「茂吉への返事」とは何でしょう。

 *「茂吉への返事」:「茂吉への返事」『折口信夫全集29』1997年、中央公論社、

初出1918年6月『アララギ』第1巻第6号

6頁に亙る記事ですが、

章立てのタイトルが無く、ただ17カ所に改行が見られるだけです。

本ブログでは改行を以て、便宜的に段落区切りとし、第1から第18に亙る段落と

見做して①~⑱と表記します。

その第1段落の冒頭は以下のとおり記述されています。

◆わたしはこゝで、駁論を書くのが、本意ではありません。

そんなことをしては、忙しい中から、意見して下された、

あなたの好意を無にすることに当りませう。

 

此処での「あなた」は、もちろん「斎藤茂吉」です。

『広辞苑』には、

「歌人・精神科医。山形県生れ。東大卒。伊藤左千夫に師事、

雑誌「アララギ」を編集。(中略)(1882~1953)」とあります。

 

因みに『広辞苑』の「折口信夫」には

「国文学者・歌人。大阪生れ。国学院大卒。…(1887~1953)」とあります。

茂吉が折口より7歳上で、半年ほど早く他界しております。

この「茂吉への手紙」には、「あなた方」が⑥⑭⑯の3つの段落に見えます。

また特定の人物の名前を見える順に従って挙げますと、

中村憲吉、伊藤左千夫、岡麓、島木赤彦、古泉千樫となります。

斎藤茂吉を含めて、これらの人物は根岸短歌会による雑誌『アララギ』に集う人たちです。

出生地は『広辞苑』によりますと出生年順に伊藤左千夫は上総(千葉県)、

島木赤彦は長野県諏訪、岡麓は東京、古泉千樫は千葉県、中村憲吉は広島県です。

手紙の受け手の茂吉は山形県で、書き手の折口は大阪です。

その折口は島木赤彦論である*「切火評論」には、

「「アララギ」の幹部が都会人でなく、質素な片山里出の人々」と記しています。

 *「切火評論」:『折口信夫全集30』1997年、中央公論社、

初出1915年10月『アララギ』第8巻第10号

そのようなアララギの人々に対する関係を最晩年の折口による

*茂吉論では以下のように綴っています。

 *茂吉論:「礼儀深さ」『折口信夫全集30』1997年、中央公論社、

初出1953年10月『アララギ』第46巻第10号

◆「アララギ」における私の関係は、

深いかと思へば浅く、浅いかと思へば存外深くて、

その中何と言ふことなしに、遠のいてしまつた。

「アララギ」の先輩に対する記憶も、まざまざと残つてゐながら、

それもちつとも感情と関係なく、しづかな記憶になつて来てゐる。

 

そのような折口は彼ら、アララギの人々を如何に捉えていたのでしょうか?

本題の1918年「茂吉への返事」に「あなた方」に当りました。

18段中の第6段より挙げます。

あなた方は力の芸術家として、

田舎に育たれた事が非常な祝福だ、といはねばなりません。

この点に於てはわたしは非常に不幸です。

軽く脆く動き易い都人は、第一歩に於て既に呪はれてゐるのです。

わたしどもと同じ仲間に引いて来るのは、無礼なことでありますが、

或点に於て、岡さんも呪はれた一人といふことが出来ます。

都会人芸術の堂に至るのと、金持ちの天国に生れるのとは、

或は同じ程な難事であるかも知れません。

 

漸くタイトルの「田舎」が出てきました。

写真図2 「田舎の風景」のイメージイラスト

「あなた方」は雑誌『アララギ』に集う人たちですので、

彼らの出身は「田舎」となります。

 

此処に「岡さんも呪はれた一人」とある「岡さん」は、岡麓であって、

東京生まれでした。

「岡さん」記事は第11段にも見えます。

◆先祖・家門・財産などいふ問題に対して、あれだけ苦痛を経験して来られた

岡さんの歌には、子規居士・左千夫先生等になかつた発見が光つてゐます。

きつと、岡さんのこれからの歌は、

アララギの歴史上に特筆せられる一分野を開いて来られるでせう。

所謂苦労人のない歌壇には、

岡さんに創まる一運動を阻拒する権利を有つた一人の歌人もない筈です。:⑪

 

都会人・岡麓に「アララギの歴史上に特筆せられる一分野」を開く期待を寄せる

折口でありますが前年の1917年5月発表の*「岡麓論」では懸念を呈してもいます。

 *「岡麓論」:『折口信夫全集30』1997年、中央公論社、

初出1917年5月『アララギ』第10巻第5号

俎上に載せられたのは「大八洲国いや広にいや高に春は桜の花さきほこる」の歌です。

◆氏はあまりに、寛容の徳を備へ、あきらめの心を持ち過ぎてゐる。

其処におなじ人間味を扱うても、

啄木の及ぶことの出来ぬ広い行き届いた処が出て来るが、

同時につきつめた処の出ない訣である。

其為に又、大ざつぱな概括的な解剖の足らぬ歌がないでもない。

「大八洲」の歌のやうなのは、殿様芸の偉大なものといふことが出来さうだ。

 

「大ざつぱな概括的な解剖の足らぬ歌」と批評しております。

次回は先に挙げた第6段の「都会人」の不幸の深読みをしてから、

その先にあるテキストの「大阪人」を読み返すことにします。

 

究会代表

新いちょう大学校講師 田野 登

2025年12月3日(火)に大阪あそ歩の浦江大仁コースの案内をします。

2週間前下見を失念していて昨日11月22日、「いい夫婦の日」に

ひとり気になる「もみじ」を探りに歩きました。

「もみじ」と云いましても「楓もみじ」より「桜もみじ」に気を揉みながら歩きました。

今回は「もみじ情報」を特集します。

本番はJR大阪環状線「福島駅」集合です。

今も残る踏切の先は地下トンネルで「大阪駅うめきたホーム」に通じます。

ソーロっと電車の消える闇を覗きます。

「売れても占い商店街」に特段「紅葉物」の造花は見られません。

私が一番、気に掛けるは、≪まだら模様の大阪の秋≫で、

梅田から気が急いて野田阪神まで直行したため飛ばした

通称「浦江聖天」(了徳院)です。

子持ち龍の彫られた山門に向かう石の鳥居の傍らの「楓もみじ」がお出迎えです。

写真図1 「浦江聖天」の参道

奉納された石造物の中に堂島浜の株屋の名前を見落とさないようにしましょう。

投企的な職業の人たちの信仰が篤いお寺で、祈願が叶い出世した方々が大勢おられます。

本堂の傍らの賓頭盧(ビンズル)さんのオツムはテカテカ光っています。

撫でれば悪いところ、厄を取ってくさる「代受苦」の御利益がある方です。

ただし撫でる順を間違えないようにしましょう。

いつもの弁天池の眺めは、今しばらくは「桜もみじ」が楽しみです。

写真図2 弁天池の眺め

まぁ、これからでしょう。

池の右手(北西隅)の芭蕉句碑「杜若塚」辺りの桜の紅葉が見ものです。

石の鳥居でお辞儀をして向かうは妙寿寺

妙寿寺は檀那寺ゆえ墓地の薬師如来に称号を三遍唱え、

正面の本堂では一礼。そこでワンショット。

普段と変わりません。

写真図3 妙寿寺本堂

「福っくらトーク」の会場でもあります。

応援団長?の方に画像をラインでお送りしましたところ、

「綺麗な青空で都会のおてらがまたいいですね」とのお返事。

タージマハルを思わせるどっしりとした構えにも秋色を感じます。

このお寺は都会のお寺なのですね。

JR神戸線のガードを潜れば、北浦江、今の地名では北区大淀南です。

気になるのは≪まだら模様の大阪の秋≫で「ちらほら見える桜紅葉」の

通称「浦江八坂神社」の参道です。

本番の12月3日を10日に控えて如何でしょう。

写真図4 浦江八坂神社の参道

桜が色づきを増しています。

カサコソと音を立てて葉が散り飛ばされ、

枯れ木とならないないことを祈ります。

濃き薄き錦秋を湛える時や何時ぞや?

浦江公園では、秋空のもと、子どもたちの元気な声が弾けています。

「秋に日のヴィオロンのため息」など嘯く間もなく、

秋色を求め歩いて大仁、今の地名で云えば北区大淀中です。

「大仁」を湯桶読みすれば「おおニン」、そこから

「ワウニン」、「ワニ」、その先が「王仁博士」となった迄のことです。

本番では、長谷川貞信「浪花百景之内 大仁邑一本松の社」の錦絵を

掲げ画讃「大仁邑は浪花より尼崎の往還にて

此地の北に王仁(るび「わうにん」)天皇の社あり、

此のうしろに古松の大木一株あるをもつて世俗一本松の社といひて」を

読み上げ、大仁八阪神社を南東から遥拝します。

東進しますとゴールの梅田スカイビルが近くに迫ってきます。

大広歩道橋の手前でワンショット。

写真図5 大広歩道橋

「大広」とは「大仁」の「大」と字名「広戸」を合成した名辞です。

歩道橋を渡った先の児童公園は「大淀南公園」で、やや色づいています。

心が急かされて「新梅田シティ」に向かいます。

そこには「都会の森」があります。

工場跡地に1993年5月に完成した「中自然」と称される空間です。

「もみじ谷」から空中庭園のある新梅田シティタワーを仰ぎ見ました。

写真図6 「もみじ谷」からの眺め

仰ぎ見た楓の梢は、まだまだ碧い、あおい。紅葉はまだ先のようです。

本番には、錦秋の絶景かと期待が膨らみます。

せせらぎの音を耳にしながら地上の世界に戻りますと、

早くも「クリスマス」の屋台が出て、

インバウンド客も交じって賑わっています。

本番は、ここで解散しますが、クリスマスツリーの先の世界がお薦めです。

「新・里山」です。

この庭園は「造成2006年7月」とありますが、

其処は、なぜか懐かしさを感じさせる空間で

子どもの頃、ハイキングに出かけた時に目にしたような人里が設えられています。

それでいて「グランフロント大阪」といった超高層の複合商業施設が

借景となっています。

写真図7 「新・里山」の借景

現在、造成中の「グラングリーン大阪」とは趣を異にした、

おとなの暫しの憩いの場所といえそうです。

大阪あそ歩「浦江大仁コース」の詳細、お申し込みは

  ↓アクセス

 https://www.osaka-asobo.jp/course562.html

いつものことながら、リピーター歓迎。

小人数で歩きたいものです。

 

究会代表

大阪あそ歩公認ガイド 田野 登