今回の「暮らしの古典」は80話≪難波の澪標(3)≫です。
前回は、難波・堀江を詠んだ歌に
「みをつくし」が詠まれていないことを踏まえて
「川や遠浅の海で、他より特に深くなっている筋」である
「ミヲ」を詠む歌16首を精読し、
難波・堀江と特定される歌6首を取り上げました。
① 巻7-1143 摂津作歌廿一首(4首目)
〽さ夜ふけて 堀江漕ぐなる 松浦舟 梶の音高し 水脈[ルビ:みを]
*[原文:「水尾」]速みかも
② 巻12―3173 羇旅発レ思歌五十三首(47首目)
〽松浦舟 騒く堀江の 水脈[ルビ:みを]*[原文:「水尾」]速み
梶取る間なく 思ほゆるかも
③ 巻15-3627 属レ物発レ思歌一首…
〽3627 朝されば 妹が手にまく 鏡なす 三津の浜辺に 大舟に
ま梶しじ貫き 韓国[ルビ:からくに]に 渡り行かむと 直向かふ
敏馬[ルビ:みぬめ]をさして 潮待ちて
水脈引き[ルビ:みをび―]*[原文:「美乎妣伎」]行けば 白波高み
④巻20―4360 *同十三日、兵部少輔大伴家持陳二私拙懐一歌一首…
*同十三日 天平勝宝七*(755)歳乙未相替遣二筑紫一諸国防人等歌
〽4360 皇祖の 遠き御代にも おしてる 難波の国に 天の下
知らしめしきと 今のをに 絶えず言ひつつ(中略)
敷きませる 難波の宮は 聞こし食す 四方の国より 奉る
御調[ルビ:みつき]*[原文:「美都奇」]の舟は *堀江より
水脈引き[ルビ:みをび―]しつつ 朝なぎに 梶引き上り あぢ群の
騒き競ひて 浜に出でて 海原見れば(中略)
ここ見れば うべし神代ゆ 始めけらしも
⑤巻20―4460 *二十日、大伴宿祢家持依レ興作歌五首(1首目)
*二十日:4457 天平勝宝八*(756)歳丙申二月朔乙酉廿四日戊申、
太上天皇天皇大后幸二河内離宮一、経レ信(ふたよ)以二壬子一
伝二幸於難波宮一也。
三月七日、於二河内国伎人郷馬国人之家一宴歌三首
〽4460 堀江漕ぐ 伊豆手の舟の *梶つくめ 音しば立ちぬ
水脈[ルビ:みを]*[原文:「美乎」]速みかも-
⑥巻20―4461
〽4461 堀江より 水脈[ルビ:みを]*[原文:「美乎」]泝る
*梶の音の 間なくそ奈良は 恋しかりける
以下、注釈を挙げます。
① 巻7-1143の歌には、『萬葉集二』
(新潮日本古典集成(第21回)1978年):『集成2』1978年の頭注
「堀江」があり「ここは難波の堀江で、今の天満を経て大阪湾に注ぐ
大川をさす」とあります。
② 巻12―3173の歌には、頭注「騒く堀江」があり「…この堀江は、難波 堀江をいう」と
頭注「梶取る間なく」には「…梶取ルまでが間ナシを起す序」と
『集成2』1978年「通釈」には、
「…難波の堀江の流れが早くて…」とあります。
③巻15-3627の歌には、『テキスト4』1975年「三津の浜辺」頭注に
「この三津は、大伴の三津をさす。…」と。
*『萬葉集三』(日本古典文学全集4、小学館、1973年):『テキスト3』 1973年、「地名一覧」の「大伴の三津」:大伴は、現在の大阪市住吉区を
中心とした地域をさす。
④巻20―4360の歌には、『テキスト4』「堀江」頭注には、「難波堀江」と あります。
⑤巻20―4460の歌には『集成5』1984年頭注「…以下三首、堀江をめぐる 望郷歌。」と。
同書『集成5』「梶つくめ」頭注に「櫓の穴(へそ)をかぶせる舷
[ルビ:ふなばた]の突起」と。
⑥巻20―4461の歌には、『テキスト4』1975年「梶の音の」語釈に
「以上三句、間ナシを起こす序。堀江をさかのぼる舟が絶え間ない意でかける」と。
以上が6首の歌が難波・堀江の「ミヲ」を詠んだものとする引証です。
「ミヲ」は「延喜式」に記事があり、「澪」の漢字が宛てられています。
「延喜式」とは『広辞苑 第七版』 ©2018 株式会社岩波書店に
「弘仁式・貞観式の後をうけて編修された律令の施行細則。…
927年(延長5)撰進。967年(康保4)施行」とあります。
以下の記事は、マイブログ≪大阪市章「澪標」のメッセージ(3):
2020-10-26 20:39:44≫に基づきます。
「澪引」は、平安時代の施行細則*「延喜式」雑式に見えます。
*「延喜式」雑式:延喜式巻第五十 雑式(『新訂増補国史大系巻26巻』
黒板勝美編輯、1937年、吉川弘文館)
◆凡太宰貢二雑官者一船。到二縁海国一。澪引令レ知二泊処一。
「澪」には、「ミヲ」が、「泊」には「トマリ」のルビが振られています。
大宰府への貢物を運び込む船に、「澪引」停泊場所をしらせよと
命じているのです。
正しい水路に導くべく「澪標」を立てさせていた記事は
この「太宰雑物船」より一条前「難波澪標」に見えます。
◆凡難波津頭海中立二澪標一。
若有二旧朽折一者。捜求抜去。
「澪標」にはルビ「ミヲツクシ」が、「標」には
「シルシ」が振られています。
澪標は、湾頭の海中に突き刺された木製の棒杭です。
「腐ったり朽ちたりしたのを見つけたら、抜きされ」と命じているのです。
航行するのに危険だからです。
因みに「澪」は、*『大漢和辞典』に次の記述があります。
*『大漢和辞典』:諸橋轍次『大漢和辞典』巻7,
修訂第2版第1刷、1989年
◆一川の名…二冷の俗字。…
邦みお。河や海の中で、水深く舟の通行する道筋。みよ。水路。水脈。
[澪]「みお」は国訓で、
熟語例として挙げられている[澪標]「ミヲジルシ」「ミヲツクシ」の
用例は、『萬葉集』『源氏物語』であって中国の古典を挙げていません。
[澪木]「ミヲギ」、
[澪杙]「ミヲグヒ」は「澪標に同じ」と記述しています。
これら「澪」を冠する語彙は、いずれも国訓なのです。
実に、この国の習俗であって、「延喜式」にある
「難波津頭海中立澪標」といった記事から察しますと、
難波・堀江の河川に平安時代には多数の「澪標」が突き立てられていて、
「澪引」をするする「水脈船」は、
澪標に沿って水先案内をしていた情景が想像されます。
かくして航路標識「みをつくし」が
「なには」を象徴する歌語となったのです。
写真図 大阪名所絵葉書の「みおつくし」(刊行年不明)
大阪市立図書館デジタルアーカイブ
http://image.oml.city.osaka.lg.jp/archive/detail?cls=ancient&pkey=d0355001
次回、近世における難波の澪標について、
「澪(みを)」を糸口に、後世の難波の湊を展望してみようと考えています。
大阪民俗学研究会代表
大阪区民カレッジ講師
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登