ドブ川跡探訪(3) | 晴耕雨読 -田野 登-

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。

2021年2月12日(土)、昭和初期ドブ川と化した
かつての*「南中島水道筋」の中流から上流を探訪しました。
  *「南中島水道筋」:『さぎす創立80周年記念誌』1998年
  安永年間海老江村羽間市蔵氏所蔵地図の河口部の標記。
今回は、千葉武会友、今村一善会友に加えて
西淀川区で活動されている桑村和男会友が参加しました。
早速、いただいたレポートは931文字の詳細な記録でした。
「阪俗研便り」には4週に亘って掲載することにしまして、
本ブログでは〈桑村レポ〉として使わせていただくことにします。

当日は、JR福島駅を13:00に「なにわ筋」を
北に向けて歩きました。
「鷺洲衛生組合管内地図」1929年(「鷺洲地図1929」)に
「福島浄正橋筋」から「大仁本町壹丁目」に差しかかる辺りは、
「大淀南1の交差点で右に曲がります」〈桑村レポ〉場所が
東流する「南中島水道筋」と交叉するところです。
現在の「なにわ筋」の一つ東の通りの北の突き当たりに
「北野抽水所」があります。
写真図1 北野抽水所:北区大淀南1

抽水所の西を北に流れていた
「水路の痕跡がありません」〈桑村レポ〉のとおりで、
道路はもとより通路も見当たりません。
北上、やや東向きに進み、「鷺洲地図1929」の
「下三番停留所」に出ます。
「下三番」は、「寛政年間南北中島郷の図」(『鷺洲町史』1925年)の
水路に「浦江」「大仁」「光立寺」の
東方に見える地名です。
写真図2 「寛政年間南北中島郷の図」大阪市立中央図書館所蔵

この辺りは桑村会友提供の
「実地踏測大阪市街全図」1911年(「実地全図1911」)では、
水路が途切れます。
この先、東方は「鷺洲地図1929」では版図外となり
「実地全図1911」を頼りに探訪しました。
「阪急本線にそって、(中津駅を)東に進み
北野の済生会病院の交差点を渡って
明治の地図の水路Bの跡であろう東西の道を東に歩きます
教会(カトリック大阪梅田教会)が左手にあります
明治の地図では、梅花女学のあたりです」〈桑村レポ〉とあります。
〈桑村レポ〉は現在「サクラファミリア」になっていました。
写真図3 サクラファミリア:北区豊崎3

東進して源光寺(北区豊崎2)の西で
「実地全図1911」の水路は途切れます。
写真図4 北区豊崎2の街頭から南を望む

「新改正摂津国名所旧跡細見大絵図」1836年(「新改正大絵図1836」)に
源光寺は「浜」の西に見えます。
「寛政年間南北中島郷の図」では、水路が「南浜」で途切れています。
この地の「南浜」は「浜」を指します。

この辺り「実地全図1911」には水路跡が2条見えます。
「*明治の地図(「実地全図1911」)の水路Dを探索します。
水路Dは、南北に流れており、南は扇町公園へ、
北は新淀川の中津運河へいっていました」〈桑村レポ〉とあります。
「名所旧跡大絵図1836」にも、
浜から本庄に南北に描かれた水路が2条見えます。

寛延元(1748)年版の「摂津国名所大絵図」(「摂津国大絵図1748」)には、
水路は「濱」から北方の「本庄」、北東の「北長柄」に向けて描かれています。
しかし、水路は暈かしているのか、途絶えています。
写真図5 「摂津国名所大絵図」大阪府立中之島図書館所蔵

元禄の頃、海老江村普請から始められた「南中島水道筋」は、
はたして「北長柄」まで掘り進められたのかは、疑問が残ります。

一行は、「中津川」、現在の「淀川」に向けて北上しました。
〈桑村レポ〉の結びには
「淀川の堤防が見えてきました
本庄東 ゴールです 午後5時過ぎです」とあります。

桑村和男会友とは、淀川の堤防で別れ、
3人は、「北長柄」を見届けるべく淀川大堰に向かいました。
写真図6   淀川河川公園長柄地区からの淀川大堰

「南中島水道筋」のゴールを「本庄東」としました。

究会代表
『大阪春秋』編集委員
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登