水上生活者風聞(1) | 晴耕雨読 -田野 登-

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。

2021年1月28日、
区民カレッジみなと校での講義を控えて
港区八幡屋漁港の「今」を訪ねました。
ボクにとって八幡屋漁港は、
民俗学を始める切掛となった場所です。
写真図1 『近畿民俗』第106号、1986年2月発行の表紙

三十間堀川の入堀です。
もう35年前、一世代以上も昔の写真です。
もう漁師はいないことを知りつつも、この地を訪ねては、
馴染の人に消息を訊ねたくなります。
漁業組合長Yさんのこと、水先案内人のOさんのことなど。
1月18日に訪ねた、ボクと同い年のNさん(1950年生)に
訊ねたところ、みんな鬼籍に入ってました。
漁師はみんな、1994(平成6)年開港となった
カンクー「関西空港」に浮かされて
漁業権を放棄したとか、
調査当時は、ざわつき出した時代でした。

漁師が祀っていたという「オエベッサン(戎)」の
行方を確かめたくて
再度、Nさんを訪ねました。
早速、案内されたのは、かつての
市場跡の入堀の縁でした。
写真図2 エビス祠

漁師がいなくなっても祀られているのでした。
ああよかった。
ことの序でのようにして、
「昔は、水上生活者も、この近くにいてはったんでしょ?」
「はあ、おりましたよ。
学校の同じクラスにも」
こともなげに聞き取れました。
このことの序として聞き出した水上生活者についての
記事に三十間堀川の入堀らしき記述を見つけたのは、
8日のみなと校での「港区のいま昔」の講義を終えてから後のことです。
*『大阪港史3』の「水上生活」の項です。
 *『大阪港史3』:大阪市港湾局1964年、第四章 水上生活
まず本文を引きます。
◆水上生活者の中には
 陸における朝鮮人のバラック生活と同様に、
 芦の間の入堀に杭を打ち、
 その上に簡単な小屋掛けをしたり、
 古い船を家にして雨露を凌ぐといった
 全く風変わりな生活をしている者もあった。

「簡単な小屋掛け」、「古い船を家にして」など、
これでは、まるで*『民俗学を生きる』にあった
あり合わせで出来たバラックです。
 *『民俗学を生きる』:島村恭則2020年
  『民俗学を生きる-ヴァナキュラー研究への道』晃洋書房

しかし、本文の「芦の間の入堀」というだけならば、
「三十間堀川」に限りません。
『大阪港史3』は、この記事の典拠として
「大正10年7月11日 大阪毎日新聞」を
本文に続けて紹介しています。
◆浪華の芦の茂りで夏向きの水上生活-
 新任の某築港署長が管内尻無川沿岸を視察したところ、
 *十三間堀河辺の入堀の丈余の芦の間の入堀に杭を打ち、
 その上に南洋式の簡単な小屋を組立てたり、
 または古船を住宅にした聚落があるのを発見し調べたところ、
 小屋は38軒もあり、
 女子供らを混ぜて130名住んでいた。

築港署長が視察した「管内尻無川沿岸」の
「十三間堀河辺の入堀」とあるのは、
「三十間堀川の入堀」ではないでしょうか?
*『角川日本地名大辞典』の「十三間堀川」を挙げます。
 *『角川日本地名大辞典』:『角川日本地名大辞典 27大阪府』1978年
●大阪市南西部を流れていた川。
 木津川から大阪市住吉区を経て大和川に至る。

「十三間堀川」は、木津川筋です。
「三十間堀川」や如何?
◆大阪市の南西部。
 港区福崎1~3丁目の臨海地区を流れる運河。
 延長約600m。
 天保山運河に連絡して尻無川と安治川に通じる。

これなら尻無川筋です。
引用文「十三間堀川」は、
「三十間堀川」の取り違えた可能性があります。

究会代表
『大阪春秋』編集委員
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登