今回は、
「笠縫島」ではなく
深江菅笠というモノをめぐっての
今日の伝承を取り上げます。
深江菅笠は
ボクの住む東大阪市(旧河内国)では
「網代(足代)笠」と云うようです。
写真図1 「足代と菅笠」のモニュメント
昨日3月28日(月)は、
2008年5月10日に実施した
*「暗越奈良街道(二軒茶屋~深江)を歩く会
-深江菅笠の工房を訪ねて-」を
逆にたどることをしました。
*「暗越・・・を訪ねて-」:
「大塩の乱 資料館」最新更新 2015.3.28
http://www.cwo.zaq.ne.jp/oshio-revolt-m/event3.htm
当日の行動計画には以下の記述があります。
●深江菅笠の工房に立ち寄り、
『摂津名所図会』にある深江新家・足代新家
(摂津と河内の国境)を経て、
近鉄布施駅前、菅笠モニュメントで解散します。
昨日はヴェル・ノール布施5階のリージョンセンターの
郷土史展示を覗いてきました。
写真図2 リージョンセンターの郷土史展示
『摂津名所図会』の深江の菅笠を商う
奈良街道の賑わいを描いた挿絵が展示されています。
ヴェル・ノール布施を出て
布施駅前広場の菅笠モニュメントを見てきました。
写真図3 近鉄布施駅前、菅笠モニュメント
このモニュメントに建立年月日は刻まれていませんが、
*昭和60(1985)年、東大阪市が施主となり
布施駅前広場整備工事の際、
前田環境美術株式会社によって
建立されたと考えられます。
*昭和60(1985)年・・・前田環境美術株式会社:
www.e-maeda.co.jp/jisseki/kenbetsu/osaka/
そのモニュメントの解説文「足代と菅笠」には
次の記述があります。
●この地の名称の由来は、
魚を獲る網代が足代に変化したという説と、
当時盛んに作られていた網代(足代)笠と呼ぶ
菅笠によるという説とがあります。
地名由来に「網代(足代)笠」を挙げております。
この段でゆけば
特産品といったモノから地名が生じたことになります。
それは、牽強付会でしょう。
「菅笠」を記述するのに
「深江」を抜きにしては語れません。
●*この時代、
足代から深江一帯で作られた笠などの
菅製品が特産物として知られました。
深江や足代地域は奈良街道に面し、
伊勢参りをする旅人たちに
この菅笠は大変重宝がられました。
*この時代:江戸時代
「足代から深江一帯」、
「深江や足代地域」とありますように
「深江」を記述するのに「足代」を並置しています。
東大阪市が語る「菅笠」には
「深江菅笠」といった
言葉が見られません。
それはそうでしょう。
「網代(足代)笠と呼ぶ菅笠」を
特産品として
町おこしの伝承の
一つとして挙げているのですから。
ボクは伝承を言説として
位置づけています。
伝承にもバイアス、
発信者による偏りは
それぞれにあるものです。
次回は、深江にもどって
「菅笠」をめぐる伝承を見つめ直します。
大阪民俗学研究会代表 田野 登