前回は、小林一三の「池田室町住宅地」に、
ひそむヒントをほのめかせて終わりました。
今回も、資料として拙著2007年『水都大阪の民俗誌』和泉書院を用います。
以下の本文中、「?」とありますのは、漢字変換不能であった文字で、
お手数ながら、引用文献にて照合してください。
小林の作成したパンフレットでは、次のように記されていました。
●晨に後庭の鶏鳴に目覚め、夕に前栽の虫声を楽み、
新しき手造の野菜を翫賞し、以て田園的趣味ある生活を欲望すべく、
従つて庭園は広きを要すべし。
朝夕の鳥や虫の声。手作り野菜の賞味。
いずれも「田園趣味ある生活」として宣伝しているのです。
こういった自然讃美の情緒は、「帰去来情緒」というべきでしょう。
この情緒をくすぐることは、私鉄経営と結びついての
郊外住宅の商品性を高めることでした。
これには、欧米流の田園都市思想を見据えながら
室町を構想した節が認められます。
エベネーザー・ハワードが名著『明日の田園都市』の原著を発表したのは、
1902(明治35)年のことです。
ハワードの田園都市は、田園を周縁に所有する計画都市です。
それは田園と都市とがセットになった空間でした。
ハワードの著書は明治40(1907)年12月に内務省地方局の有志によって
はやくも翻訳・上梓されています。
小林一三のパンフレット
「如何なる土地を選ぶべきか如何なる家屋に住むべきか」が
配られたのは、明治42(1909)年の秋です。
小林一三による一連の郊外住宅の宣伝文との関係が認められますのは、
内務省地方局の有志による『田園都市』の方です。
箕面有馬電軌の月刊広告誌『山容水態』創刊号に、
内務省『田園都市』を引用した記事があります。
この箇所の引用は、送りがなの違いを除いては
「一区寰」を「一寰区」にしただけでほぼ同じものです。
発想について挙げますと、「新市街」の中心に神社を据えている点についても、
内務省『田園都市』の〈第十五章 我邦田園生活の精神〉との対応がみらます。
すなわち、内務省『田園都市』に次の記事がみられます。
●両大神宮の祠宇を園の中央に設け、祭時には百姓を茲に集めて酒食を饗し、
楽しき一日を送らしむるなど、娯楽の事に就ても、亦深く意を用いひたり。
それが新市街パンフレットでは
●中央に有名なる呉服神社あり、機織裁縫の祖、呉媛、漢媛を祀り
境内千六百有余坪、古松老杉昔ながらの面影を偲ぶべく、朝夕の逍遥、
児童の遊戯場として適当の場所なれば、
会社は更にこれを修理して小公園たる設備を完ふすべし。
この「呉服神社」と、内務省『田園都市』の「両大神宮の祠宇」とが、
機能面で通じています。
いずれも、これらの神社・祠が住民の憩いの場として設えられているのです。
もっとも、呉服神社境内は、住宅所有地ではありませんでした。
小林一三のアイディアは内務省『田園都市』から学んだと考えます。
住民社交の理想郷は、室町会館(前身は「室町倶楽部」)に現実化します。
やがて、その土地・建物は、昭和10(1935)年に15年月賦で
阪急電鉄から有償譲渡されることになります。
室町会館では、さまざまな同好の集いが繰り広げられ、
住民間の交際が深められました。
*『室町のあゆみ』によりますと、
室町最初の催しが明治44(1911)年7月25日夜に行われました。
*『室町のあゆみ』:社団法人室町会発行、1958年『室町のあゆみ』
この夜、浄瑠璃会で語った大夫は室町会の会員でした。
素人浄瑠璃がここでも盛んで、
その後、茂山社中を招いての能狂言を観賞したり、子供会や名刺交換会や
さらに100人を超える女中さんのための慰安会に使用されたりもしました。
近代都市における住民の社交を、先取りしていたのでした。
「自然」の理想郷は、自宅でも四季を感じることにもありました。
梅の木には、二月から三月にかけて鶯がやってきて、
その声に春の息吹を感じたと記されております。
室町住宅では、二階の窓もまた自然の景観を楽しませる装置となりました。
二階の窓からの光景を次のように記しております。
●桃畑や菜の花畠が望まれて、たなびく霞の下にピンクと黄緑の裾模様が
色を添えている様は、一双の屏風に描かれた春景色と紛う美しさである。
夏ともなれば、庭木にちいちい蝉・あぶら蝉・くま蝉のなき声が
絶え間なく響きわたる。
夏の夕べ、前栽に打ち水をした後、風鈴の音色を耳に涼風を肌に感じつつ、
縁側に食卓をだし、井戸に吊して冷やしたビールをグイとのどへ流し込む、
これが殿方にとって、昼間の暑さを忘れ、仕事の疲れを癒す
唯一の楽しみであったともあります。
まさに暑気払いに「前栽」「縁側」といった屋内と屋外の境となる装置から
効果的に「自然」を取り入れているのです。
「井戸」もまた、住居において地下に通じる境です。
「井戸端」は、秋の夜更けにコオロギや鈴虫のもの悲しい音色を奏で
「深まり行く秋の気配を感じずにはいられなかった」ともあります。
町内でも、小川、桜並木、道筋、神社などの空間に
「自然」の営みを感じています。
小川のせせらぎでは、子どもがコブナやドジョウを網ですくいとり、
川筋の桜並木は、四月上旬には満開となり、
幼稚園の入園式にふさわしい光景となりました。
呉服神社の参道もまた町内の桜の名所でした。
移住してきた都市生活者の「自然」志向は、
旧来のマチ・ムラの信仰の空間を逍遥の空間に取り込んでいるのです。
理想郷にも恐怖はありました。
河原は、移住してきた都市生活者の、子供達の恐怖の場所でした。
猪名川の堤には、笹がたくさん生えていました。
ここは「小さな原野」でした。
室町の少年たちは、その笹を使って七夕祭をしたといいいます。
そこは、彼らにとって薄気味悪い空間でもありました。
そこには丑の刻参りをする人がいて、
白装束で大きな椋の木に釘を打ち付けていたとか。
朝早く、椋の木に釘が刺さっているのを見つけたことがあるといいいます。
ゴンデン堤というのは、能勢の妙見さん(大阪府豊能郡能勢町野間中)に
お参りをする人が白装束で団扇太鼓を叩きながら通って行く土手道でした。
また、寒施行といって寒に狐に油揚げをやりに行く人がいたともいいいます。
池田から尼崎に魚を仕入れに行った人が狐に騙されたと語るのも
このゴンデン堤でした。
この土手道は修行者の通る道であったのでしょうが、
少年たちにとってのゴンデン堤は、自分たちの領分を区切る境界線でした。
そこでは、白装束の異相の人がメンタルマップに記憶されているのです。
河原には、もう一つ怖い所がありました。
河原には墓場があり、竹藪がありました。
墓場の竹藪にはたくさんマムシがいたし、
墓場の竹藪では人魂を見たといいます。
藪の闇に霊異を覚える感性は、新しいマチの子供たちにも浸透していました。
『室町のあゆみ』には、「都会人の淋しさ」を次のように述べています。
●平和郷といえども、室町の周囲は南に桃畑、東は畑地、
西は草茫々と繁る猪名川堤、北は車庫で、周囲に人家は殆んどなく、
竹藪の向こうに六甲を眺める景色はすばらしいが、
都会人にとっては言い知れない淋しさが昼間でも感じられた。
また、同誌に掲載された座談会では、
「十番丁下に竹やぶがあって、狸が出るといわれるくらいの淋しいところ」
だったとも話されています。
河原の墓場の竹藪は、当地一番のオカルトスポットだったに相違ありません。
河原の墓場をマチバの人は、下の墓(シタノハカ)と言っていました。
建石町の聞書では、
「昔、八月一日から三日間、この墓の周囲に行燈を灯していた」とききました。
そこには、焼き場がありました。
『室町のあゆみ』には、次の記述があります。
●十番丁の町のはずれ、堤防下に円通寺という
庵寺のような小さいお寺があった。
大きな松の木が五、六本あって
猪名川の竹やぶにつづき、
ここに墓場と火葬場があった。
「別天地」と思われた室町は、
マチバの人のソーレン(葬列)道に当たっていました。
室町でこのことを確かめましたところ、
往時、マチの人の葬列が一、二番丁を横に見て、三番丁を下まで通り抜けて
墓場のある円通寺に行ったとのことでした。
大正7(1918)年の時の葬列の様子は、次のとおりであったと聞きました。
●提灯一対を先頭に、白裃・編み笠に藁草履の相続人が位牌を持って続く。
その後、遺影を抱いた人、線香を持つ人、樒を持つ人と続き、座棺が続き、
その後に近親者、その他大勢の参列者と続く。
その墓場では、「設備のない田舎の野焼き」が行われていました。
死者を葬ることは尊いこととはいえ、
その煙が室町住民を悩ませました。
『室町のあゆみ』には、次の記述があります。
●やがて楽しい夕食が始まる頃、円通寺の松影から白い煙が上がり始めると、
婦女子ならずとも、襟元が寒くなる。殊に夏の頃西から吹く涼風は、
諸行無常の臭いをのせて室町のスイートホームを襲って来た。
新しく開かれた土地というのは、旧住民にとりましては
場末であり町外れであって、三昧地として相応しい場所でした。
円通寺の墓地と火葬場は、昭和3(1928)年に桃園に移転するまでありました。
「諸行無常の臭い」は、新しく参入したマチのインテリ住民にとっての
受難の一つと感じられていました。
受難といえば、泥棒の侵入がそうです。
室町は、野中の離れ島でした。
それでいて、
粗末な焼き板塀と排水路で囲まれているだけで昼間でも不用心で、
大正2(1913)年からは、室町倶楽部の一部を区切って
請願巡査派出所が設置されるようになりました。
小林一三の「理想的郊外」パンフレットには
神社の杜の効用が謳歌されようと、泥棒の出没を招く「野中の離れ島」
などは謳っていません。
「新市街」に住むというのには、
フロンティアスピリットとまでは言わないまでも、
「勇気」が必要でした。
郊外なるがゆえ「原野」と接して暮らすことを余儀なくされたのです。
以上で、都市民俗の景観としての「近代」を終えます。
「エルおおさか」での講座「大阪における都市民俗」は、
9月3日(火)です。
ちょうど一ヶ月先です。
「都市民俗」に留意しながら「近代」について話します。
ここをクリック↓