日露戦争を全般的に描いた映画と言えば「明治天皇と日露大戦争」だろう。
日露戦争前のロシアの南下政策に戦々恐々とする人々、武力侵攻を主張する七博士、御前会議、国交断絶……と、日露戦争開戦までの経緯が描かれ、仁川上陸、旅順港封鎖、黄海大海戦、203高地、奉天入城、日本海海戦、大勝利の提灯行列までを、明治天皇の御製を織り込みながらパノラミックに描いた歴史ドラマとなった大作映画。
新東宝の大蔵貢が社長に就任し、渡辺邦男監督の手腕の下、態勢立て直しを図る新東宝だったが、ヒット作が続かなかった。
そこで大蔵社長は、それまでの日本映画では天皇の姿を出すこと自体がタブーだった中、「ここ一番の大勝負」と、天皇をネタにすることを思いついた。
1957年(昭和32年)正月、前年に宝塚映画をやめ新東宝に入社した嵐寛寿郎(以後愛称「アラカン」で表記する) の京都の自宅に、「5月のゴールデン・ウィークに超大作を出すので主役を演ってほしい、ついては社長直々に相談をしたい」と大蔵から使いが来た。
アラカンはずいぶん先の話にしては性急なと、内容について聞いたが「日露戦争の話としか聞いてません、詳細は社長と渡辺監督から申し上げます、ともかくお出で下さい」と切り口上で返すだけ。
アラカンは「正月早々から何とけたたましい、乃木将軍でも演れとゆうことかいな」と思ったという。
東京本社に出向いたアラカンに、大蔵は「明治天皇を演ってほしい」と切り出した。アラカンは吃驚仰天し、「そらあきまへん、不敬罪ですわ、右翼が殺しに来よります」と断ったが、渡辺監督は涼しい顔で「大丈夫や、ボクかて右翼やないか」と返し、大蔵は「この作品に社運をかける、総天然色、大シネスコ、製作費2億円」と熱弁を振るい、「寛寿郎くん、大日本最初の天皇役者として歴史に残りたいと思わんかねキミイ」と説得にかかった。
元活動弁士仕込みの説得力もあり、アラカンは「シネマ・スコープ」に心が動き、「考えさせてもらいます」と答えた。
ところが翌日の新聞には、でかでかと「『明治天皇と日露大戦争』、主役を引き受けた嵐寛寿郎、恐く感激云々」と宣伝部が談話をでっちあげて発表してしまっていた。
こうしてアラカンは、この大役を引き受けざるを得なくなった。
アラカンは、前代未聞の明治天皇役をどう演じるか悩んだ。
その姿を見た大蔵は一計を案じ、アラカンが撮影所に来る時にはハイヤーで送迎し、ハイヤーが新東宝撮影所に到着すると大蔵以下新東宝の重役、スタッフが勢揃いして出迎えし「陛下のおなり」と呼び合うことを日課とした。
アラカンは後年、この日課により「自分が本当に天皇陛下になった気分がした」と述懐している。
作品完成後に行われた試写会は、ときの皇太子(現・明仁上皇)も閲覧した。
近代の天皇を俳優(嵐寛寿郎)が演じることに対し「不謹慎ではないか」という批判や、試写会後にも「敗戦後10年少々しか経っていない今、50年も前の勝ち戦を描く企画に無理がある」という『朝日新聞』の映画評もあったが、公開されるや空前絶後の記録的な大ヒット映画となった。
観客動員数は2000万人、「日本人の5人に1人が観た」と言われ、日本の映画興行史上の大記録を打ち立てた。配給収入5億7000万円は、封切映画の入場料150円の時代の大記録であった。
日本語版のまま封切られた台湾でも、同地で公開された日本映画史上最大の観客動員数を記録している。