私にとって大岡昇平と言えば『俘虜記』『レイテ戦記』といった戦争もので、特に中学生の時に読んだ「野火」は人肉を食すという話で衝撃的であった。
大岡 昇平(1909年(明治42年)3月6日 - 1988年(昭和63年)12月25日)は、日本の小説家・評論家・フランス文学の翻訳家・研究者。
1972年(昭和47年)、日本芸術院会員に選ばれたが「捕虜になった過去があるから」と言って辞退した。
この記者会見の席にいた加賀乙彦によると、記者が帰った後に大岡は「うまいだろ」と言って舌をぺろりと出したという。
皮肉をこめた国家への抵抗との見方もある。
しかし最晩年に昭和天皇の重態に際して「おいたわしい」と書いた(どちらも波紋を呼んだが、ともにウラを読まなければ普通の発言という見方もできる)。
『レイテ戦記』は、大岡昇平による戦記文学作品。
大東亜戦争の“天王山”と呼ばれ、日本軍8万4千人もの犠牲を生み出した(対して米軍の死傷者は1万5千人)レイテ島における死闘を、厖大な資料や多くのインタビューを取り、それらを紐解いて再構築したものである。
本作によって、大岡は1972年に毎日芸術賞を受賞した。
大岡は「結局は小説家である著者が見た大きな夢の集約である」と語っており、「大岡昇平全集」(筑摩書房刊)において本作が小説に分類されていたことから、小説として扱う。
『レイテ戦記』は日本の代表的な戦記といえるが、野間文芸賞を辞退した。
大岡は1944年に召集され、フィリピン・ミンドロ島に派遣されたが、1945年1月にアメリカ軍の捕虜となり、同年12月に復員する。
この体験を基に『俘虜記』『野火』などの小説を発表したが、いずれも一兵士の視点で語られた作品に過ぎなかった(前者は作者の実体験)。
しかし、「損害が大きければ、それだけ遺族も多いわけで、自分の親族がどのようにして戦って死んだか知りたい人は多いわけである。それには旧職業軍人の怠慢と粉飾されすぎた物語に対する憤懣も含まれていた。」(あとがきから一部変えて抜粋)という考えに至り、この作品を手がけ、レイテ島で死闘した末に死亡した兵士達の鎮魂碑を打ち立てた。
私は大岡昇平が戦場で倒れ、近くに米兵がいるのにもかかわらず撃たなかったというエピソードや、捕虜になって米兵に連行される途中に古参兵が大事にしていたバナナが散乱していた話など妙に覚えている。
学歴のある補充兵ばかり集められた部隊(部隊長の方針であったらしいが年長者が多かった)で補充兵の二等兵として戦った大岡昇平が国に対してどんな感情を抱いていたのか・・・。
「生きて虜囚の辱め」を受けて生きて帰ることが恥であった時代に、家族を残して死ぬことより生きて帰ることを選んだということは当時としては大変な勇気だったことだろうと思う。
日本芸術院会員に選ばれたが「捕虜になった過去があるから」と言って辞退したことも、そのままの意味で受け取っても不思議な話ではないなと思った。