硫黄島守備隊玉砕 | 戦車のブログ

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先日、新聞に硫黄島の自衛隊滑走路を剝がして遺骨捜索したところ日本兵の遺骨が出てきたとあった。

 

米軍は日本兵の遺体を埋めその上に滑走路を作ったのだ。

 

戦後日本に返還された後は自衛隊がその滑走路を使用していた。

 

戦後、硫黄島ではたくさんの日本兵の幽霊が出たという、もっともな話だ。

 

 

日本の大本営は昭和20年3月17日に硫黄島守備隊が玉砕したと発表した日。

 

しかしながらその後も残存日本兵からの散発的な遊撃戦は続き、3月26日、栗林大将以下300名余りが最後の総攻撃を敢行し壊滅、これにより日米の組織的戦闘は終結した。

 

 

硫黄島の戦闘が始まれば、日本軍には小規模な航空攻撃を除いて、増援や救援の具体的な計画・能力は当初よりなく、守備兵力20,933名のうち96%の20,129名が戦死あるいは戦闘中の行方不明となった。

 

一方、アメリカ軍は戦死6,821名・戦傷21,865名の計28,686名の損害を受けた。

 

大東亜戦争後期の上陸戦でのアメリカ軍攻略部隊の損害(戦死・戦傷者数等の合計)実数が日本軍を上回った稀有な戦いであり、フィリピンの戦い (1944-1945年)や沖縄戦とともに第二次世界大戦の太平洋戦線屈指の最激戦地の一つとして知られる。

 

 

栗林中将は硫黄島着任間もなくして島民に対して本土または父島への避難(強制疎開)をさせている。

 

日本軍将兵が総力を挙げて要塞化を進める一方で、栗林中将は防御戦術を練っていた。

 

第31軍司令官小畑中将は、上陸には水際防衛で対抗すべしという当時の原則から海岸近くでの戦闘を命じていた。

 

しかし栗林中将は、水際での抵抗はアメリカ軍の艦砲射撃による防御射撃を招き、意味が薄いと考えていた(実際にサイパンの戦いで水際作戦を取った際には、上陸3日で3万人の守備隊が壊滅する事態に陥っていた)。

 

栗林中将の採用した戦術は、サイパンやペリリューの戦訓を勘案し、従来の水際防御戦術を改めて内陸での持久抵抗戦を主とし、上陸した敵部隊に消耗を強いることを主眼とする以下のようなものであった。

 

1.アメリカ軍に位置が露見することを防ぐために、日本軍の火砲は上陸準備砲爆撃の間は発砲を行わない。アメリカの艦艇に対する砲撃は行わない。

 

2.上陸された際、水際では抵抗を行わない。

 

3.上陸部隊が一旦約500m内陸に進んだならば、元山飛行場付近に配置した火器による集中攻撃を加え、さらに、海岸の北へは元山から、南へは摺鉢山から砲撃を加える。

 

 

4.上陸部隊に可能な限りの損害を与えた後に、火砲は千鳥飛行場近くの高台から北方へ移動する。

 

 

 

火砲は摺鉢山の斜面と元山飛行場北側の高台の、海上からは死角となる位置に巧みに隠蔽されて配置された。

 

食糧と弾薬は持久抵抗に必要となる2.5か月分が備蓄された。

 

 

だが、混成第2旅団長の大須賀應陸軍少将、第109師団参謀長の堀静一陸軍大佐、硫黄島警備隊および南方諸島海軍航空隊司令の井上左馬二海軍大佐らは、水際作戦にこだわり、栗林中将の戦術に強く反対したため、大須賀少将・堀大佐を賛成派の千田貞季陸軍少将・高石正陸軍大佐にそれぞれ交代し、司令部の意思の統一を図った。

 

千田貞季陸軍少将

 

 

1945年1月に発令された最終作戦は、陣地死守と強力な相互支援を要求したもので、従来の攻撃偏重の日本軍の戦術を転換するものであった。

 

兵力の大幅な損耗に繋がる、防護された敵陣地への肉弾突撃・万歳突撃は厳禁された。

 

 

また、栗林は自ら起草した『敢闘ノ誓』を硫黄島守備隊全員に配布し、戦闘方針を徹底するとともに士気の維持にも努めている。

  • 一 我等ハ全力ヲ奮テ本島ヲ守リ抜カン
  • 一 我等ハ爆薬ヲ抱イテ敵戦車ニブツカリ之ヲ粉砕セン
  • 一 我等ハ挺進敵中ニ斬込ミ敵ヲ皆殺シニセン
  • 一 我等ハ一發必中ノ射撃ニ依ツテ敵ヲ打仆サン
  • 一 我等ハ敵十人ヲ斃サザレバ死ストモ死セズ
  • 一 我等ハ最後ノ一人トナルモ「ゲリラ」ニ依ツテ敵ヲ悩マサン

特に最後の「一 我等ハ敵十人ヲ斃サザレバ死ストモ死セズ」と「一 我等ハ最後ノ一人トナルモゲリラニ依ツテ敵ヲ悩マサン」は、長期持久戦を隷下将兵に徹底させる旨の一文であり、この誓いは実際の戦闘で生かされることとなる。

 

 

さらに陣地防御と持久戦を重要視した実践的指導として、同じく栗林が起草・配布した『膽兵ノ戦闘心得』では以下のように詳述している(膽兵の「膽」とは第109師団の兵団文字符)。

  • 戦闘準備
    • 一 十倍ノ敵打チノメス堅陣トセヨ 一刻惜ンデ空襲中モ戦闘中モ
    • 二 八方ヨリ襲フモ撃テル砦トセヨ 火網ニ隙間ヲ作ラズニ 戦友倒レテモ
    • 三 陣地ニハ糧ト水トヲ蓄ヘヨ 烈シキ砲爆、補給ハ絶エル ソレモ覚悟デ準備ヲ急ゲ
  • 防御戦闘
    • 一 猛射デ米鬼ヲ滅スゾ 腕ヲ磨ケヨ一発必中近ヅケテ
    • 二 演習ノ様ニ無暗ニ突込ムナ 打チノメシタ隙ニ乗ゼヨ 他ノ敵弾ニ気ヲツケテ
    • 三 一人死ストモ陣地ニ穴がアク 見守ル工事ト地物ヲ生セ 擬装遮蔽ニヌカリナク
    • 四 爆薬デ敵ノ戦車ヲ打チ壊セ 敵数人ヲ戦車ト共に コレゾ殊勲ノ最ナルゾ
    • 五 轟々ト戦車ガ来テモ驚クナ 速射ヤ戦車デ打チマクレ
    • 六 陣内ニ敵ガ入ツテモ驚クナ 陣地死守シテ打チ殺セ
    • 七 広クマバラニ疎開シテ 指導掌握ハ難カシイ 進ンデ幹部ニ握ラレヨ
    • 八 長倒レテモ一人デ陣地ヲ守リ抜ケ 任務第一 勲ヲ立テヨ
    • 九 喰ワズ飲マズデ敵撃滅ゾ 頑張レ武夫 休マズ眠レヌトモ
    • 十 一人ノ強サガ勝ノ囚 苦戦ニ砕ケテ死ヲ急グナヨ膽ノ兵
    • 十一 一人デモ多ク倒セバ遂ニ勝ツ 名誉ノ戦死ハ十人倒シテ死ネルノダ
    • 十二 負傷シテモ頑張リ戦ヘ虜トナルナ 最後ハ敵ト刺シ違ヘ

防御準備の最後の数か月間、栗林中将は、兵員の建設作業と訓練との時間配分に腐心した。訓練により多くの時間を割くため、北飛行場での作業を停止した。

 

12月前半の作戦命令により、1945年2月11日が防御準備の完成目標日とされた。

 

12月8日、アメリカ軍航空部隊は硫黄島に800tを超える爆弾を投下したが、日本軍陣地には損害をほとんど与えられなかった。

 

 

1945年1月5日、市丸少将は指令所に海軍の上級将校を集め、レイテ沖海戦で連合艦隊が壊滅したこと、そして硫黄島が間もなくアメリカ軍の侵攻を受けるだろうという予測を伝えた。

 

2月13日、海軍の偵察機がサイパンから北西へ移動する170隻のアメリカ軍の大船団・艦隊を発見する。

 

小笠原諸島の日本軍全部隊に警報が出され、硫黄島も迎撃準備を整えた。

 

 

1945年2月16日、作戦開始を控えた記者会見でスミス中将は説明した。「攻略予定は5日間、死傷は15,000名を覚悟している。」。

 

アメリカ軍は、島や洞窟に潜む日本兵を殲滅し、アメリカ兵の被害を少なくするためには毒ガスの使用が最も効果的との結論を得ていたが(毒ガス禁止のジュネーヴ議定書に当時の日米は署名をしていたが、批准はしていなかった)、統合参謀本部議長のウィリアム・リーヒ海軍元帥から反対する意見具申もあって、国際的非難を顧慮したフランクリン・ルーズベルト大統領は許可しなかった。

 

 

1945年2月16日(日本時間)、アメリカ軍硫黄島派遣軍は硫黄島近海に集結し攻撃を開始した。

 

新鋭戦艦3隻、旧式戦艦3隻、巡洋艦5隻よりなる砲撃部隊は、偵察機によって調べられた既知の陣地に艦砲砲撃を加え、撃破すれば海図に記載し、次の箇所を撃滅するというノルマンディー上陸作戦以来の方法で、各受け持ち地区を砲撃した。

 

そして、これに付随した護衛空母の艦載機は弾着観測と個別陣地の撃破を行なった。

 

通常弾はほとんど効果がないことから、ロケット弾が多用されるにいたった。

 

 

 

効果ありと判断したアメリカ軍は、これにより、歩兵を乗せた12隻の上陸用舟艇が東岸に移動した。

 

すると、摺鉢山の海軍管轄の海岸砲が舟艇を砲撃して9隻を行動不能にし、3隻が大破した。

 

この攻撃により重砲陣地の場所を知ったアメリカ軍は、摺鉢山の海岸砲陣地に対して戦艦ネバダより艦砲射撃を行い、摺鉢山の主要な火砲はほぼ戦力を失った。

 

この際、あるアメリカ兵が「俺達用の日本兵は残っているのか?」と、戦友に尋ねたというエピソードがある。

 

しかし、偵察機ではうかがい知れないその答えを、海兵隊員は上陸後、身をもって知ることになる。

 

 

19日、午前6時40分に艦砲射撃が始まり、8時5分にB-29爆撃機120機、その他B-24や海兵隊所属機を含む艦載機による重爆撃に交代(効果は上がらなかったと報告されている)、8時25分から9時まで再度艦砲射撃が続いた。

 

9時、第4、第5海兵師団の第1波が上陸を開始した。

 

水際での日本軍の抵抗は小火器や迫撃砲による散発的な射撃にとどまり、海兵隊は円滑な上陸に意外の感を受けつつ内陸へ前進した。

 

 

だが日本軍は地下坑道の中で艦砲射撃に耐え、機をうかがっていた。

 

午前10時過ぎ、日本軍は一斉攻撃を開始、海兵隊の先頭へ集中攻撃を浴びせた。

 

 

柔らかい砂地に足を取られ、動きがままならない状態の所に攻撃を受けたためたちまち第24、第25海兵連隊は25パーセントの死傷者を出し、M4 シャーマン中戦車は第1波で上陸した56両のうち28両が撃破された。

 

これほどの濃密な火力の集中を受けた戦場は南方作戦緒戦を除き、太平洋ではそれまで例がなかった。

 

硫黄島の土壌は崩れやすい火山灰のため、しっかりした足場も無く、海兵隊は塹壕(蛸壺)を掘ることもできなかった。

 

 

また高波を受けて、上陸用舟艇や水陸両用車が転覆や衝突によって損傷した。

 

各地に上陸した誘導隊の努力にもかかわらず、海岸には舟艇や車輌があふれて後続部隊の上陸を妨げた。

 

やっとの思いで揚陸した戦車も日本軍高射砲の水平射撃によって撃破された。

 

19日だけで海兵隊は戦死501名、戦傷死47名、負傷1,755名という損害を受けた。

 

 

23日午前10時15分、第5海兵師団は遂に摺鉢山頂上へ到達し、付近で拾った鉄パイプを旗竿代わりに、28in.×54in.の星条旗を掲揚した。

 

 

硫黄島攻略部隊に同行していたジェームズ・フォレスタル海軍長官は、前線視察のため上陸した海岸でこの光景を目撃し、傍らにいたホーランド・スミス海兵中将へ「これで(創設以来、アメリカ軍部内で常にその存在意義が問われ続けてきた)海兵隊も500年は安泰だな。」と語り、この旗を記念品として保存するように所望した。

 

 

そこで、揚陸艇の乗員が提供した5ft×8ftと先の旗の2倍となる星条旗を改めて掲げ、先の旗と入れ換えることになった。

 

午後12時15分にAP通信の写真家・ジョー・ローゼンタールが、まさに「敵の重要地点を奪った海兵隊員達が戦闘の最中に危険を顧みず国旗を掲げた」その瞬間を捉えたような印象を与える(つまり後撮り)写真とあわせ写真3枚を撮影した。

 

硫黄島の戦いは「アメリカ海兵隊は水陸両用作戦のプロである」という存在意義を広く世界へ向けて示したのだった。

 

しかしその4日後のサンフランシスコでは「(タラワ、サイパン、硫黄島での損害の大きさに)マッカーサーの指揮した戦闘では、このような損害は一度も出ていない」と海軍批判の社説が掲載された。

 

 

3月7日、栗林中将(第109師団)は最後の戦訓電報(戦闘状況を大本営に報告する一連の電報)である総括電報「膽参電第三五一号」を発する。

 

名義は膽部隊長(第109師団長栗林)で、宛先は参謀次長(参謀本部:大本営陸軍部)と、栗林中将の陸軍大学校時代の兵学教官である恩師・蓮沼蕃陸軍大将(当時、帝国最後の侍従武官長)であった(「参謀次長宛膽部隊長蓮沼侍従武官長ニ伝ヘラレ度」「以上多少申訳的ノ所モアルモ小官ノ率直ナル所見ナリ 何卒御笑覧下サレ度 終リニ臨ミ年釆ノ御懇情ヲ深謝スルト共二閣下ノ御武運長久ヲ祈リ奉ル」)。

 

 

後の作戦立案などに生かすため参謀本部(大本営陸軍部)に送る戦訓電報を、畑違いである蓮沼侍従武官長にも宛てた理由としては、栗林中将が強く訴えている陸海軍統帥一元化と海軍批判が黙殺されることを危惧したためであり、また、栗林中将が硫黄島で展開した一連の防衛戦術は、栗林中将が陸大学生時代に蓮沼教官から教わったものを基本としていることによる(「硫黄島ノ防備就中戦闘指導ハ陸大以来閣下ノ御教導ノ精神ニ基クモノ多シ 小官ノ所見何卒御批判ヲ乞フ」)。

  • 防衛計画段階において海軍側が水際防御と飛行場確保に終始こだわったこと(地下陣地の構築と海軍の反対)
  • アメリカ軍上陸時に栗林中将が厳禁としていた上陸用舟艇・艦艇への砲撃を海軍の海岸砲が行った結果(防衛戦術)、摺鉢山の火砲陣地を露呈させてしまい全滅したこと(アメリカ軍の上陸)
  • 海軍が摺鉢山に危険な魚雷庫を配置した結果、先述の砲撃により誘爆を起こし大爆発し周辺兵員を死傷させたばかりか、爆発時に空いた大孔によりアメリカ軍に突破口を与えてしまい摺鉢山の早期陥落につながったこと(摺鉢山の戦い)

特に海軍側の数多い大失態の例として以上の3例があり、以下の「膽参電第三五一号」の原文の太字は陣地構築および戦闘中における海軍の不手際や無能・無策の批判となる。

 

なお、栗林中将はこのように海軍側および中央を猛烈に批判しているが、栗林中将自体は軍人を目指す弟に対し陸士ではなく海兵受験を薦めるなど海軍嫌いというわけではない。

 

 

水の乏しい硫黄島で日本軍の飲用水は払底し、将兵は渇きに苦しんだ。暗夜に雨水を求めて地下陣地を出た兵士の多くは戻って来なかった。3月14日、小笠原兵団基幹部隊として栗林中将を支えてきた歩兵第145連隊長・池田大佐が軍旗を奉焼した。

 

 

16日16時過ぎ、栗林中将は大本営へ訣別電報を送った。

 

 

  • 戦局最後ノ関頭ニ直面セリ 敵来攻以来麾下将兵ノ敢闘ハ真ニ鬼神ヲ哭シムルモノアリ 特ニ想像ヲ越エタル量的優勢ヲ以テス 陸海空ヨリノ攻撃ニ対シ 宛然徒手空拳ヲ以テ克ク健闘ヲ続ケタルハ 小職自ラ聊カ悦ビトスル所ナリ 然レドモ 飽クナキ敵ノ猛攻ニ相次デ斃レ 為ニ御期待ニ反シ 此ノ要地ヲ敵手ニ委ヌル外ナキニ至リシハ 小職ノ誠ニ恐懼ニ堪ヘザル所ニシテ幾重ニモ御詫申上グ 今ヤ弾丸尽キ水涸レ 全員反撃シ最後ノ敢闘ヲ行ハントスルニ方リ 熟々皇恩ヲ思ヒ粉骨砕身モ亦悔イズ 特ニ本島ヲ奪還セザル限リ皇土永遠ニ安カラザルニ思ヒ至リ 縦ヒ魂魄トナルモ誓ツテ皇軍ノ捲土重来ノ魁タランコトヲ期ス 茲ニ最後ノ関頭ニ立チ重ネテ衷情ヲ披瀝スルト共ニ 只管皇国ノ必勝ト安泰トヲ祈念シツツ 永ヘニ御別レ申シ上グ 尚父島母島等ニ就テハ 同地麾下将兵如何ナル敵ノ攻撃ヲモ断固破摧シ得ルヲ確信スルモ何卒宜シク申上グ 終リニ左記駄作御笑覧ニ供ス 何卒玉斧ヲ乞フ
 
    • 国の為重き努を果し得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき
 
    • 仇討たで野辺には朽ちじ吾は又 七度生れて矛を執らむぞ
 
    • 醜草の島に蔓る其の時の 皇国の行手一途に思ふ

 

 

南の孤島から発信されたこの訣別電報は、本土最北端である海軍大湊通信隊稚内分遣隊幕別通信所により傍受され、通信員が涙ながらに大本営へ転送したとされる。

 

 

17日、アメリカ軍は硫黄島最北端の北ノ鼻まで到達した。この日、大本営よりその多大な功績を認められ(「追テ本人ハ第百九師団長トシテ硫黄島ニ在テ作戦指導ニ任シ其ノ功績特ニ顕著ナル……」)、同日付けで特旨を以て日本陸海軍最年少の大将(陸軍大将)に昇進した栗林は 、同日に最後の総攻撃を企図し、隷下各部隊へ最後の指令が送られた。

 

 

  • 一、戦局ハ最後ノ関頭ニ直面セリ
  • 二、兵団ハ本十七日夜、総攻撃ヲ決行シ敵ヲ撃摧セントス
  • 三、各部隊ハ本夜正子ヲ期シ各方面ノ敵ヲ攻撃、最後ノ一兵トナルモ飽ク迄決死敢闘スベシ 大君{注:3語不明}テ顧ミルヲ許サズ
  • 四、予ハ常ニ諸子ノ先頭ニ在リ
 
 

しかし同日は出撃の機会を見つけられなかったため、夜に約60m離れた来代工兵隊壕(歩兵第145連隊指揮所)への転進が行われ、市丸少将以下の海軍残存兵力と合流した。

 

 

戦車第26連隊を率いていた西中佐は火炎放射器によって負傷してもなお戦い続け、正確な最期は分かっていないが19 - 21日頃に戦死したとされる。

 

 

25日深夜、木更津基地から6機の一式陸攻が離陸、うち根本正良中尉機のみが硫黄島に到達し、単機爆撃を行った(根本機は生還)。

 

これが硫黄島における日本軍最後の航空攻撃となった。

 

 

26日、17日以来総攻撃の時機を待っていた栗林大将は最後の反攻を敢行。

 

栗林大将以下、約400名の将兵がアメリカ軍陣地へ攻撃をかけた。

 

この最後の攻撃は栗林が戦闘前から戒めていた決死の万歳突撃ではなく必至の夜襲であり、また攻撃を受けたアメリカ陸軍航空軍の野営地には整備員など戦闘の訓練を受けていない者が多く、当地は混乱に陥った。

 

アメリカ側では53名が戦死、119名が重傷を負ったとされる。

 

 

栗林大将の最期の模様は正確には分かっていない。

 

一説には、突撃時に敵迫撃砲弾の破片を大腿部に受け前線から避退、近くの洞窟で中根中佐らと自決したとされている。

 

海兵隊は栗林大将に敬意を表し遺体を見つけようとしたが、栗林は軍服の襟章(階級章)や軍刀の刀緒、所持品など、佩用・所有者の階級や職が把握できる物を外して最後の総攻撃を率いていたため、見つけることはできなかった。

 

 

これを以って、日本軍の組織的戦闘は終結した。だが、残存兵力によって局地的戦闘やゲリラによる遊撃戦が終戦まで続いている。

 

 

 

栗林大将による最後の総攻撃に先立つ3月6日、機能を回復した硫黄島の飛行場に最初のP-51戦闘機部隊が進出した。

 

3月15日(日本時間)、アメリカ軍は硫黄島の完全占領を発表した。

 

また3月21日、日本の大本営は硫黄島守備隊の玉砕を発表した。

 

「戦局ツヒニ最後ノ関頭ニ直面シ、17日夜半ヲ期シ最高指導官ヲ陣頭ニ皇国ノ必勝ト安泰トヲ祈念シツツ全員壮烈ナル総攻撃ヲ敢行ストノ打電アリ。通爾後通信絶ユ。コノ硫黄島守備隊ノ玉砕ヲ、一億国民ハ模範トスヘシ。」