77年前に日米開戦となった日。
真珠湾攻撃(日本時間1941年(昭和16年)12月8日未明、ハワイ時間12月7日)は、アメリカ合衆国のハワイ準州オアフ島真珠湾にあったアメリカ海軍の太平洋艦隊と基地に対して、日本海軍が行った航空機および潜航艇による攻撃である。
当時の日本側呼称はハワイ海戦(布哇海戦)。
太平洋戦争における南方作戦の一環として、開戦劈頭でマレー作戦に次いで実施された。
戦闘の結果、アメリカ太平洋艦隊の戦艦部隊は戦闘能力を一時的に喪失した。
12月8日午前1時30分(日本時間)ハワイ近海に接近した日本海軍機動部隊から、第一波空中攻撃隊として艦戦43機、艦爆51機、艦攻89機、計183機が発進。
草鹿は189機が発進したとしているが、爆装の艦攻50機が戦艦を、雷装の40機が戦艦および空母を目標とし、艦爆54機は航空基地を、艦戦45機は空中および地上の敵機を目標と定めていたという。
午前2時45分、第二波空中攻撃隊として艦戦36機、艦爆81機、艦攻54機、計171機が発進した。
草鹿によれば54機の艦攻は航空基地を、81機の艦爆は空母および巡洋艦を、36機の艦戦はやはり敵機を目標と定めていた。
なお敵空母の動勢は不明であったが、付近を索敵するなどの案は排され、真珠湾攻撃に全力が向けられた。
また攻撃隊を二派に分けているのは航空母艦の飛行甲板の広さや滑走距離による制限である。
当時の日本の航空母艦は、搭載する全航空機を全て甲板に並べ、一斉に発進させることはできなかった。
なおこの攻撃に先立ち、陸軍はイギリスの植民地のマレー半島コタバルで奇襲上陸作戦を行っていた。
真珠湾とマレーで一方が先行すれば、その情報が直ちに同盟国同士のイギリスからアメリカに伝えられることとなり、他方の奇襲が成り立たなくなると予想された。
しかし源田の案により、暗闇での発艦を回避するため、攻撃隊の発進は当初の予定より2時間遅れとなった。
この決定を軍令部が把握した時には命令変更の時間がなかったため、三代辰吉中佐がコタバル攻撃部隊へ伝達しないことにした。これにより、真珠湾攻撃はコタバル奇襲上陸作戦開始の2時間遅れとなった。
しかし、結果的に陸軍のマレー上陸の報が、イギリス軍から真珠湾に展開するアメリカ軍に伝達されるのはコタバルへの攻撃開始のはるか後の事になり、その結果真珠湾並びにアメリカ領フィリピンを含む太平洋地域のアメリカ軍の迎撃体制のゆるみに影響することはなかった。