散華の世代からの問い | 戦車のブログ

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散華とは、華(花)を散布すること。

 

仏教では仏を供養するために華を散布する。

 

また花を散らす意味から転じて、死亡すること、特に若くして戦死する事の婉曲表現としても使われている。

 

 

「散華」は、「華と散る」と解すことで、死亡、特に戦死の婉曲表現または美化表現としても使用されている。

 

なお戦死の美化表現には「玉砕」もあるが、玉砕は個人の戦死ではなく部隊の全滅を意味し、大本営発表などで公式に使用された。

 

散華の世代とは戦時中に多くの戦没者を出した世代のことであろう。

 

 

「散華の世代から」という著作を残した学徒出身で「戦艦大和ノ最期」を書いた吉田満のドキュメントの動画だ。

 

吉田 満(1923年1月6日 - 1979年9月17日)は、日本の小説家である。

 

代表作は映画化、長時間テレビドラマ化もされた小説、『戦艦大和ノ最期』。

 

また、日本銀行行員として要職を歴任した。

 

 

東京生まれ。

 

東京府立四中、旧制東京高等学校を経て、東京帝国大学法学部入学。

 

 

大日本帝国海軍における経験をもとにした著作を残すとともに、日本銀行勤務の傍ら「戦中派」の論客として戦争責任問題等に独自の言論を展開した。

 

代表作である『戦艦大和ノ最期』で知られ、海軍での上官であった臼淵磐も吉田の著作を通して広く知られるようになった。

 

 

学徒出陣により海軍予備学生として武山海兵団に入団、1944年(昭和19年)に海軍電測学校を経て少尉(予備少尉)に任官されて同年12月戦艦大和に副電測士として乗艦した。

 

 

翌1945年(昭和20年)4月、天一号作戦(坊ノ岬沖海戦)に参加するも生還、その後は高知県須崎の回天基地に勤務した。

 

 

日本の敗戦後の同年9月、両親が疎開していた東京都西多摩郡に復員。同地に疎開していた作家・吉川英治と面談し、その勧めに従い『戦艦大和ノ最期』を執筆した。

 

同作は、ほぼ半日で完成したともいう。

 

 

戦艦大和ノ最期』は、吉田満の代表作である。

 

 

著者自らが体験した天一号作戦(坊ノ岬沖海戦)での戦艦大和の出撃から沈没までを綴った記録小説。

 

大東亜戦争を題材とした戦記文学である。

 

 

文語体で綴られた初稿は一日足らずで書かれ、1946年(昭和21年)12月の雑誌『創元』創刊号に掲載される予定だったが、GHQの検閲で全文削除された。

 

 

そのため出版刊行は、独立回復後の1952年(昭和27年)8月に創元社からなされた。

 

この小説が、後の大東亜戦争を描写した小説や映画に与えた影響は大きく、特に天一号作戦を取り上げた作品には、本作の内容を参考として記述されている物も多い。

 

 

『戦艦大和ノ最期』出版(1952年8月)に当たっては、河上徹太郎、小林秀雄の奔走で、白洲次郎がGHQとの交渉を取り持ち、白洲正子が、小林秀雄と知り合う切っ掛けともなった経緯がある。

 

その後さらに改稿され、1974年(昭和49年)に北洋社から出版されたものが決定稿とされている。

 

 

1952年(昭和27年)8月に創元社から出版された刊行本には、河上徹太郎、小林秀雄、林房雄、三島由紀夫、吉川英治の5人が跋文を寄せた。

 

 

三島由紀夫の跋文は、短い簡潔な文章ながらも、いつの時代も青年が抱く「生」の意義、「絶対」との邂逅の希求から、戦艦大和の戦いの持つ哲学的な意味を綴っている。

 

 

戦艦大和沈没までの出来事を著者・吉田満の眼を通してリアルに記述した小説であるが、発表当初から記述の内容や描写に対して指摘や疑問の意見が多く、小説に描かれた表現や逸話について一部信憑性が薄い物もあるといわれている。

 

 

第二艦隊通信参謀付だった渡辺光男は、『連合艦隊』(株式会社パシフィカ発行、1981年)中の座談会「『大和』その生活と闘い」で、吉田の弱音を紹介している。

 

渡辺と吉田の酒席で、吉田は「真実だけを描いていると言い切る自信がない」と謝罪していたという。

 

さらに臼淵磐大尉が仲介する原因となった「兵学校出の中尉、少尉」という文だが、兵学校出身の最下級士官は第七三期で、3月1日に中尉に昇進している。

 

つまり、当時の大和に「兵学校出の少尉」はいないという細かい勘違いがある。

 

 

駆逐艦「初霜」が大和乗組員を救助する際、軍刀で生存者の手首を切ったとする部分については、現在も論争の原因となっている。

 

2005年(平成17年)4月7日、『朝日新聞』のコラム「天声人語」で、「初霜短艇」の行動が再びとりあげられると、『産経新聞』6月20日朝刊一面に於いて、初霜短艇指揮官・松井一彦の反論が掲載された。

 

松井は1967年(昭和42年)4月、吉田に削除を求める書簡を送り、吉田も了承したが、結局削除されないまま吉田は病没した。

 

 

八杉康夫(大和乗組員)によれば、羅針儀がある内火艇に磁気狂いの原因となる軍刀を持ち込むことはありえないという。

 

八杉によれば、八杉は吉田を詰問し、吉田は「私はノンフィクションだと言ったことはない」と弁明したとされる。

 

駆逐艦「雪風」の田口砲術長は吉田に真偽を問いただしたが、「昔のことなので忘れた」という返答があった。

 

 

野呂昭二(大和気象班員)は、生存者達の中では唯一、事実だと証言した。

 

吉田の妻・嘉子は、吉田の目撃談ではなく伝聞と前置きした上で、当時ならばあり得たことだと述べる。

 

吉田の長男は、著作権の後継者として記述改変を拒否した上で、吉田が執筆の時点で真実と思われたことを記述したものとした。

 

 

吉田の上官だった江本義男は「無かった」と述べ、同時に「初霜短艇」は瑣末な問題にすぎないと答えている。

 

 

 

また艦橋最上部の露天防空指揮所にいた有賀幸作艦長の最期も、目撃者の証言と異なる。

 

吉田の小説では「羅針儀に固縛し、ビスケットを食らいつつ沈む」とある。

 

塚本高夫(二等兵曹、防空指揮所艦長付伝令)や江本義男(大尉、測的分隊長)によれば、ただ羅針儀をつかんで「大和」と共に沈んでいった。

 

塚本によれば、最期の言葉は「フネと一緒に行くよ。君らは急げ」だった。

 

 

 

中尾大三(中尉、防空指揮所高射砲付)によれば、有賀は第一艦橋に下りていき、姿を消した。

 

しかし「大和」の幹部が羅針儀に身体を縛りつけたという事実はあった。

 

第一艦橋にいた浅羽満夫(中尉、水測士)によれば、茂木航海長と、花田秦祐掌航海長が白布で身体を羅針儀に縛り、「大和」と共に沈んでいったという。

 

 

このように、現在では戦艦大和沈没という歴史的事実と、自らの体験に伝聞あるいは創作を加えたフィクション小説と理解されている。