戦争証言 「終戦 その時満洲では」 | 戦車のブログ

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終戦直後の満州ではソ連軍の侵攻と支那人の襲撃や強盗により日本人開拓団は凄惨な状況となった。

 

防衛大学校1期生には多くの満州からの引揚者がいたが、「軍隊が無くなったとたん日本人は中国人やソ連軍に襲われた、軍隊ないことがどれだけ心細く不安なことか少年であった身でも思い知った」と言っていたのを思い出す。

 

 

満州での終戦直後の証言は軍隊、日本国民を守る武力組織が無くなったらどうなるか如実に物語る話である。

 

 

満蒙開拓移民は、1931年(昭和6年)の満州事変以降、1945年(昭和20年)の大東亜戦争終戦までの期間に日本政府の国策によって推進された、満州、内蒙古、華北に入植した日本人移民の総称である。

 

 

満蒙開拓団とも言われる。

 

1932年(昭和7年)から大陸政策の要として、また昭和恐慌下の農村更生策の一つとして遂行され、14年間で27万人が移住した。

 

 

 

満州開拓移民は農業従事者を中心に、村落や集落などの地縁関係に重点をおいた移民団(開拓団)が日本の各地で結成された。彼らは農業研修や軍事的な訓練を渡航前に受け、大陸へ「満州開拓武装移民団」として送り込まれる方式がとられた。

 

 

満州開拓移民の募集には、『王道楽土』や『五族協和』などをスローガンに喧伝したキャンペーンが大々的に行われ、多くの人々が募集に応じた。

 

 

青少年義勇軍を含む満州開拓移民の総数は27万人とも、32万人ともされる。ソ連の参戦でほとんどが国境地帯に取り残され、日本に帰国できたのは11万人あまりだった。

 

 

各地の開拓移民団は引き揚げの途中で多くの死者、行方不明者、収容所での感染症による病死者を出し、無事に帰国できた開拓団はなかった。

 

 

また、国境を越えてきたソ連兵に捕らえられシベリアへ送られた男子入植者は、シベリア抑留者となり帰国は更に困難を極めた。

 

 

敗戦後の日本の混乱により、開拓移民団を中心とした大陸から帰国した「引揚者」は帰国後の居住のあてもなく、戦後も苦難の生活を余儀なくされた。

 

政府は、彼らに移住用の土地を日本の各地に割り当てることにしたが、非耕作地が多く開墾の必要な土地であった。

 

 

いずれの土地も荒れ、耕作には適さず、多くの人々は過酷な状況にさらされた。

 

敗戦によって日本全体が困窮しており、政府も満足な支援をすることが出来なかった。

 

 

 

太平洋戦争末期の戦局の悪化により、開拓団からの招集も増えるようになり、特に1945年7月の「根こそぎ動員」では、約4万7000人が招集された。

 

 

同年8月9日にソ連軍が満州に侵攻すると、関東軍は開拓移民を置き去りにして逃亡した。

 

ソ連参戦時の「満蒙開拓団」在籍者は約27万人であり、そのうち「根こそぎ動員」者4万7000人を除くと開拓団員の実数は22万3000人、その大半が老人、女性、子供であった。

 

男手を欠いた開拓移民は逃避行に向かい、その過程と難民生活で約8万人が死亡した。

 

 

主に収容所における伝染病感染を含む病死、戦闘、さらには移民用地を強制的に取り上げられ生活の基盤を喪っていた地元民からの襲撃、前途を悲観しての集団自決などが理由である。

 

敗戦時に旧満州にいた日本人は約155万人といわれるが、その死者20万人の4割を開拓団員が占める。