戦争体験者はもう90代前後の世代となりもう語り継ぐ証言者は僅かな人達だけとなっている。
動画では学徒出陣で陸軍特別操縦見習士官となり特攻隊要員となった方と、海軍予科練習生から回天特攻隊員となった方の貴重な証言である。
学徒出陣(旧字体: 學徒出陣)とは、第二次世界大戦終盤の1943年(昭和18年)に兵力不足を補うため、高等教育機関に在籍する20歳以上の文科系(および農学部農業経済学科などの一部の理系学部の)学生を在学途中で徴兵し出征させたことである。
日本国内の学生だけでなく、当時日本国籍であった台湾人や朝鮮人、満州国や日本軍占領地、日系二世の学生も対象とされた。
学徒動員と表記されることもある。
学生は徴兵検査を受け、1943年(昭和18年)12月に陸軍へ入営あるいは海軍へ入団した。
入営時に幹部候補生試験などを受け将校・下士官として出征した者が多かったが、戦況が悪化する中でしばしば玉砕や沈没などによる全滅も起こった激戦地に配属されたり、慢性化した兵站・補給不足から生まれる栄養失調や疫病などで大量の戦死者を出した。
1944年(昭和19年)末から1945年(昭和20年)8月15日の敗戦にかけて、戦局が悪化してくると特別攻撃隊に配属され戦死する学徒兵も多数現れた。
全国で学徒兵として出征した対象者の総数は日本政府による公式の数字が発表されておらず、大学や専門学校の資料も戦災や戦後の学制改革によって失われた例があるため、未だに不明な点が多い。
出征者は約13万人という説もあるが推定の域を出ず、死者数に関してはその概数すら示す事が出来ないままである。
ただし、当時の文部省の資料によれば当時の高等教育機関就学率(大学・専門学校・旧制高等学校などの総計)は5%以下であり、さらに理工系学生は引き続き徴兵猶予されたため学徒兵の実数は決して多くなかった。
しかしその多くが富裕層の出身であり、将来社会の支配層となる予定の男子であった大学生が「生等もとより生還を期せず」(江橋慎四郎の答辞の一節)という言葉とともに戦場に向かった意味は大きく、日本国民全体に総力戦への覚悟を迫る象徴的出来事となった。
特別操縦見習士官は、大東亜戦争終盤の日本陸軍航空において、高等教育機関の卒業生・在学生中の志願者を予備役将校操縦者として登用した制度あるいは登用された者を指す。
しばしば特操と略され、国民一般には学鷲の愛称も使われた。
1-4期生が養成され、1,2期生は特攻に動員されて多数の戦死者を出した。
戦争末期の飛行機・ガソリン不足のため、3,4期生は十分な訓練を受けることができず、ために大部分が生き残った。
1943年(昭和18年)6月、首相兼陸軍大臣の東條英機大将は大東亜戦争に関し、「航空を超重点とする」軍備建設を指令した。
これにより陸軍では航空要員の急速な拡充が必要となり、中でも操縦者(パイロット)の育成は年度内に3000名、翌年度末までには2万名を目標とされ、従来の少年飛行兵や陸軍航空士官学校の増員だけでは時間的にも数的にも不足であった。
もっと速成で教育に対応できる人員の確保が急務であったが、専門性の高い操縦教育に対応できる優秀な人材の供給源として残されていたのは、大学をはじめとする高等教育機関だけだった。
同年7月、陸軍航空関係予備役兵科将校補充及服役臨時特例(勅令566号)が発令され、これにもとづいて採用された者が特別操縦見習士官(以下、特操と略す)である。
特別操縦見習士官は、特別海軍飛行予備学生と似た制度で、航空消耗戦の要請に応えるために設けられ、高等学校・専門学校の卒業生、大学の卒業生、在学生を対象とした。
特操は採用と同時に曹長の階級章をつけた見習士官の身分を与えられ、各地の陸軍飛行学校へ入校、わずかな基礎教育の後、練習機で操縦教育を受けた。
6ヶ月後に飛行学校を卒業すると教育飛行隊へ配属され実用機の訓練を積み、実戦部隊に転属し更なる訓練や将校勤務を経て採用から1年後に少尉に任官する。
3年以上かけて教育を受ける航空士官学校や少年飛行兵と比べて極端に短期間で将校操縦者となるのが特操の特徴である。
名前が表すとおり操縦者に限定した制度であったため、教育中に操縦に適性がないと判断された者は甲種幹部候補生に編入されたが、1944年(昭和19年)5月に特别甲種幹部候補生の制度が制定されてからは、そちらに編入されるようになった。
また特操が「特别」とされる所以は、その身分的な扱いにもある。
例として甲種幹部候補生は入営までに受けた教育の高さを活かして比較的短期間で少尉になれるという点では特操に似ているが、二等兵の辛い新兵生活から軍歴が始まっている点が大きく異なる。陸軍で一番のエリートコースである陸軍士官学校や航空士官学校の士官候補生でさえ、形式的にとはいえ兵(上等兵、兵長)を経験するのに比べ、特操制度は初めから兵・下士官を一切経験しないという厚遇である。
これは高学歴者を優遇する海軍の予備学生制度が、大学生や専門学校生に人気であったため、優秀な人材を海軍に取られまいとする陸軍の苦肉の対抗策であったとされる。
しかしながら陸軍上層部も、操縦者としても将校としても極端に経験が少ない特操には真に優遇をしていたと思われる形跡が薄く、「学鷲」たちは主として代用的な操縦教官や特攻の要員として起用されることが多く、大勢の戦没者を出している。
回天は、大東亜戦争で大日本帝国海軍が開発した人間魚雷であり、日本軍初の特攻兵器である。
「回天」という名称は、特攻部長大森仙太郎少将が幕末期の軍艦「回天丸」から取って命名した。
開発に携わった黒木博司中尉は「天を回らし戦局を逆転させる(天業を既倒に挽回する)」という意味で「回天」という言葉を使っていた。
秘密保持のため付けられた〇六(マルロク)、的(てき)との別称もある。
回天は超大型魚雷「九三式三型魚雷(酸素魚雷)」を改造し、特攻兵器としたものである。
九三式三型魚雷は直径61cm、重量2.8t、炸薬量780kg、時速48ノットで疾走する無航跡魚雷で、主に駆逐艦に搭載された。
回天はこの酸素魚雷を改造した全長14.7m、直径1m、排水量8tの兵器で、魚雷の本体に外筒を被せて気蓄タンク(酸素)の間に一人乗りのスペースを設け、簡単な操船装置や調整バルブ、襲撃用の潜望鏡を設けた。
炸薬量を1.5tとした場合、最高速度は55km/hで23キロメートルの航続力があった。
ハッチは内部から開閉可能であったが、脱出装置はなく、一度出撃すれば攻撃の成否にかかわらず乗員の命はなかった。
操作方法は、搭乗員の技量によるところが多かった。
手順としては、突入直前に潜望鏡を使用して敵艦の位置・速力・進行方向を確認、これを元に射角などを計算して敵艦と回天の針路の未来位置が一点に確実に重なる、すなわち命中するように射角を設定。
同時に発射から命中までに要する時間を予測。そして潜望鏡を下ろし、ストップウォッチで時間を計測しながら推測航法で突入する。
命中時間を幾分経過しても命中しなかった場合は、再度潜望鏡を上げて索敵と計算を行い、突入を最初からもう一度やり直すという戦法がとられ、訓練もそのように行われた。
しかし、作戦海域となる太平洋の環礁は水路が複雑であり、夜間において潜望鏡とジャイロスコープを用いての推測航法で目標に到達することは十分な訓練を経ても容易ではなかった。
当時の搭乗員は「操縦するのには6本の手と6つの目がいる」と話していたという。
1944年(昭和19年)11月8日、「玄作戦」のために大津島基地を出撃した菊水隊(母艦潜水艦として伊36潜、伊37潜、伊47潜に各4基ずつ搭載)の12基が、回天特攻の初陣である。
西カロリン諸島への潜水艦や彩雲航空偵察により、目標地点を決定。
菊水隊の回天搭載潜水艦3隻のうち、伊36潜と伊47潜の2艦はアメリカ軍機動部隊の前進根拠地であった西カロリン諸島のウルシー泊地を、伊37潜はパラオのコッソル水道に停泊中の敵艦隊を目指した。
回天の最初の作戦であるウルシー泊地攻撃「菊水隊作戦」(第1次玄作戦)は、1944年(昭和19年)11月19日から11月20日にかけて決行された。
20日、伊47潜から4基全て、伊36潜からは4基中の1基(残3基は故障で発進不能)の計5基の回天が、環礁内に停泊中の200隻余りの艦艇を目指して発進した。
しかし、伊47潜の帰着直後の報告により作成された「菊水隊戦闘詳報」によると、「3時28分から42分、伊47潜は回天4基発進。発進地点はマガヤン島の154度12海浬」とホドライ島の遥か南より発進させている。
そのため、プグリュー島の南側で2基の回天が珊瑚礁に座礁して自爆することとなった。
1945年3月以降は敵本土上陸に備えて、陸上基地よりの出撃や施設設営とともに、スロープを設けられた旧式の巡洋艦(北上)や、松型駆逐艦、一等輸送艦からの発射訓練も行われたが、戦地へ輸送中に撃沈されたり、出撃前に終戦となった。
終戦を迎えたあと、必死を要求される特攻兵器のイメージから「強制的に搭乗員にさせられた」「ハッチは中からは開けられない」「戦果は皆無」などの作戦に対する否定的な面が強調され、ときには事実と異なる情報が流布されたこともあった。
回天のハッチは中から手動で開けられ、外からも工具を必要とするものの開閉できた。
これは脱出装置が装備されていないこととの混同が発生していると思われる。
回天の搭乗員は全てが志願者であった。
ただし、当時の日本軍将兵にとって特攻隊への志願を拒否することは著しく困難であったことも考え合わせる必要がある。
広島と長崎に落とされた原子爆弾(核部分)をテニアン島まで運び、帰路にあった重巡洋艦インディアナポリスを撃沈したのは、この回天特別編成隊の多門隊・伊58潜によるものだった。
ただし、会敵時は暗く回天戦は困難であり、橋本以行艦長の判断で回天は予備に置かれ、通常の雷撃で行われた。多門隊の回天は後に沖縄海域で故障艇1 を除き全て出撃した。