海上保安庁創立 | 戦車のブログ

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1948年5月1日、海上保安庁が発足した日。

 

 

海上保安庁(略称:海保(かいほ)・海保庁(かいほちょう)・保安庁(ほあんちょう)、英語:Japan Coast Guard、略称:JCG)は、国土交通省の外局であり、海上の安全及び治安の確保を図ることを任務としている。

 

 

創設時の旧組織は、第二次世界大戦後、連合国軍占領下の1948年(昭和23年)に、アメリカ沿岸警備隊をモデルに設立された。

 

 

モットーは「正義仁愛」である。

 

 

 

海上保安庁は、海上における法令の励行、違法行為への対応、海難救助、海上交通整理、海図製作等の海洋情報(水路)業務、航路標識の管理等の業務を行う。

 

 

  2014年度(平成26年度)末の海上保安庁の職員数は13,208人、予算規模は1,834億円であり、その中の982億円(52%)が一般職の国家公務員の人件費として費やされる。

 

 

法律(海上保安庁法)上、明確に軍隊ではないとされている。

 

しかし、「Japan Coast Guard」の標記などから、海上保安庁を諸外国の沿岸警備隊(コーストガード)、国境警備隊と呼ばれる準軍事組織と同様とする見解から、これらの組織が有事の際には軍隊の一部として参戦することが戦時国際法では認められていることや、自衛隊法でも特別の必要を認めるときは組織の全部や一部を防衛大臣の統制・指揮下に組み込めるなど、準軍事組織との比定が試みられる場合がある。

 

なお、前述の条文(第25条)に従い海上保安庁法には戦時国際法に関する条文などは存在しない。

 

 

人員の大部分は、海上保安大学校や海上保安学校で専門教育を受け卒業した生え抜きの職員であるが、長官や次長、一部の管区海上保安本部長等は、国土交通省や他省庁のキャリア官僚が海上保安庁の職員として就くことが多い。

 

 

英称は1948年(昭和23年)の開庁当初より米国の主張から、その時々に「Maritime Safety Board」や「Maritime Safety Agency」を用いた歴史的な経緯がある。

 

 

 

運輸省所管時の2000年(平成12年)4月より、「広く国民の皆様に海上保安庁の業務を分かりやすく理解していただくため、海上保安庁のロゴ、ロゴマーク及びキャッチコピーを定めた。」との公表後に、権限や法律の変更は全くないが、国土交通省への移管後の2001年(平成13年)以降は船舶などへも、このロゴを用いたJapan Coast Guard(略称: JCG :直訳すると「日本国沿岸警備隊」)に変更している。

 

 

2016年(平成28年)1月1日現在では、合計454隻の船艇、74機の航空機を保有している。

 

 

また、2015年(平成27年)4月1日現在で5309基の航路標識を保有している。

 

 

海上保安庁法第25条の条文で、海上保安庁は軍隊ではない事が明確に規定されている。

 

 

そのため、シンボルマーク・記章類・制服等は軍隊色をイメージしないものが取り入れられるよう配慮されている。

 

巡視船艇の船舶自体の運航体制は、民間船舶とほぼ同様であり、海上保安業務等は残りの乗組員(職員)により執行される。

 

 

また停泊中は数名の当直を残し船内もしくは宿舎等で待機する。

 

 

しかし、世界的に海軍と沿岸警備隊は共通する部分が多く、制服のデザインも類似しているため他国の沿岸警備隊に準じた制服を採用している日本の海上保安庁も実際には、海上自衛隊を含む各国海軍の軍服に類似しており、世界的に見た場合、一般的に主権を行使できる国境警備隊・沿岸警備隊は「準軍事組織」と認知されるため、海外の報道や資料では、海上保安庁を「準軍事組織」として扱っている場合もある。

 

 

また、かつて海上保安庁などの統合目的で創設された保安庁への移行時期には、内部組織の海上警備隊(沿岸警備隊)が短期間ながら準軍事組織として存在した。

 

 

なお、海上における準軍事組織とは、国際法(国連海洋法条約)の観点から軍艦が定義されており、乗組員についても階級と名簿が必要である。

 

また、海上保安庁の階級は「官職名の沿革」からも分かるように、船舶に乗り込む行政職員として船長・航海士・機関長・通信士・甲板員・主計員などの職責・職務の範囲を示す船員制度に近く、このことからも海上保安庁が準軍事組織であるとは言い難く、資料などによる「準軍事組織」としての扱いは日本の国内事情や法体制などがあまり知られていないことによる。

 

 

海上保安庁は海上の安全および、治安の確保を図ることを任務とする国土交通省(旧運輸省)の機関(外局)である。

 

 

主に海難救助、交通安全、防災及び環境保全、治安維持が任務の内訳となるが、それ以外にも海洋権益(領海警備や海洋調査)も任務としている。

 

 

国外の艦艇に対応する任務は行政上別系統である防衛省の特別の機関である海上自衛隊が担当しており、船舶に対する任務は海上保安庁が担う。

 

 

海上保安庁は第二次世界大戦終戦前までの高等商船学校出身の旧海軍予備士官が中核を担い1948年(昭和23年)5月設立されたのに対し、海上自衛隊の前身・海上警備隊は海軍兵学校出身の旧海軍正規士官が中核を担って海上保安庁内に1952年(昭和27年)4月設置された。

 

 

 

高等商船学校生は卒業時に海軍予備少尉又は海軍予備機関少尉に任官され、戦時中召集されると海防艦の艦長、特設艦艇の艦長・艇長、あるいはそれらの艦艇の機関長等として船団護衛、沿岸警備の第一線で活躍したほか、乗り組んでいた商船が船ごと軍に徴用されて危険海域の物資・兵員輸送業務に従事するなど、予備士官といえども海軍兵学校出身の正規士官に負けない働きをした。

 

 

 

それでも海軍兵学校を頂点とするエリート意識がアイデンティティである旧海軍の学閥偏重主義、学歴至上主義のため、優秀なエキスパートであっても予備士官は将校とはされず、有事の際には指揮権継承の優先権を軍令承行令に基いて、将校たる正規士官より下位とされた。

 

大東亜戦争では高等商船学校出身者の戦死率が海軍兵学校出身者よりもむしろ高く、これが後世に至るまで海上保安庁(高等商船学校出身者)と海上自衛隊(海軍兵学校出身者)の関係に禍根を残してきた。

 

 

1999年(平成11年)3月23日には能登半島沖不審船事件が発生し、事態が海上保安庁の能力を超えているとして海上自衛隊に初の海上警備行動が発動された。

 

 

このときの反省を受け事件後に、海上保安庁と海上自衛隊との間で不審船対策についての「共同対処マニュアル」が策定され、戦争中の旧海軍内での立場や受けた仕打ちに端を発して設立時の恨みから長らく続いてきた両者間の疎遠な関係を改善するきっかけとなり、情報連絡体制の強化や両機関合同の訓練が行われるようになった。

 

 

この時点では上級幹部に至るまで防衛大学校、海上保安大学校出身者が占めるようになっていた。

 

また高速で防弾性に優れ長距離射撃能力が付与された巡視船が建造されるようになった。

 

さらに2001年(平成13年)には海上警備業務における武器使用基準を定めた海上保安庁法第20条第2項の改正が行われ、一定の条件下に限って該船の乗員に危害射撃を加えても海上保安官の違法性が阻却(免責)されるようになった。

 

この改定の直後に九州南西海域工作船事件が発生している。

 

 

なお、海上警備行動時には海上自衛隊が海上保安庁の任務を一時的に肩代りするものであるから、海上自衛隊も警察官職務執行法・海上保安庁法を準用して行動する。

 

 

海上保安庁が運用する固定翼機の操縦士は海上自衛隊の操縦士を養成する小月教育航空群に委託され、海上自衛隊の隊員に準じた教育を受ける。(回転翼機は海上保安学校で養成)

 

 

自衛隊法第80条により、自衛隊の防衛出動や治安出動があった際に特に必要な場合には、内閣総理大臣の命令により防衛大臣の指揮下に組み入れられる可能性がある。

 

これは、初期の海上保安庁(後に海上警備隊を経て海上自衛隊が創設される)の設立モデルとなったアメリカ沿岸警備隊が、戦時にはアメリカ海軍の指揮下に入って軍隊として運用される規定に倣ったものである。

 

 

ただし、防衛大臣の指揮下に入った場合でも、その行動範囲や活動権限は特に通常時と変わらない(特に武器の使用については、あくまでも警察官職務執行法に従わなければならない)ことから、あくまでも自衛隊が必要とするところ(自衛隊施設など)への警備を手厚くするよう指示したり、実際の警備行動において自衛隊と海上保安庁の各機関を一元的に指揮し、両者の連携を円滑にする程度に留まるものと思われる。

 

 

また、「文面を見る限り、自衛隊法第80条は、海上保安庁法第25条と矛盾するのでないか」との指摘もあるが、防衛大臣の海上保安庁に対する指揮は、直接行われるのではなく、海上保安庁長官(文官)に対して(間接的に)行われるに過ぎない。

 

そのため、矛盾しないものと考えられている。

 

 

大日本帝国時代、日本周辺海域における法秩序の維持については、旧海軍が実働部隊となってきた。

 

 

しかし1945年(昭和20年)の降伏に伴って日本は非軍事化され、海軍も掃海部隊を除いて解体された。

 

 

これによって洋上治安維持能力は大きく損なわれ、海賊すら出現する状況に至っていた。

 

これに対し、政府は日本側の手による洋上治安維持組織の創設を模索しており、運輸省に水上監察隊を設置する構想、農林省に海上監視隊を設置する案、大蔵省の税関を強化する案、旧内務省の警察組織を強化する案などが検討されていたものの、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)としては、当初は日本の海運・造船・水産活動を厳しく制限する占領政策を採っており、日本海軍の復活への警戒感が根強かったこともあり、いずれも進展しなかった。

 

 

 

しかし1946年(昭和21年)初夏ごろより、朝鮮半島からの輸入感染症としてコレラが九州に上陸し、猛威をふるいはじめた。

 

その流入ルートとして、不法入国や密貿易等が疑われたことから、同年6月12日、GHQは日本政府に対し不法入国取り締まりの権限を付与する旨の覚書を通達した。

 

これを受け、7月1日、運輸省海運総局に不法入国船舶監視本部、その実働機関として九州海運局に不法入国船舶監視部が設置された。

 

 

しかしこの時点で、保有船舶はタグボート3隻と港務艇13隻のみ、武装は一切なし、要員も運輸省職員で、取締業務の経験者は一人もいなかった。

 

 

大久保武雄監視本部長は、第二復員局の掃海艇・要員の応援を求めたが、GHQにより却下された。

 

 

この時期、GHQ側も日本の沿岸・港湾警備に課題があることを認識し、アメリカ沿岸警備隊よりミールス大佐を招聘して、課題の洗い出しと対策の策定を求めていた。

 

 

ミールス大佐は、アメリカ沿岸警備隊をモデルとした、海上治安の一元的な管理機関の設置を提言した。

 

 

これを受けて、関係各省の間の所轄争いを経て、1948年(昭和23年)、連合国軍占領下の日本において洋上警備・救難および交通の維持を担当する文民組織として、当時の運輸省(現在の国土交通省)外局として海上保安庁が設立されることとなった。

 

コートニー・ホイットニー准将

 

しかし創設にあたっては、武装した海上保安機構の創設に対するGHQ民政局(コートニー・ホイットニー准将)の反発を受け、下記の6項目が科せられることとなった。

  1. 職員総数1万名を超えない
  2. 船艇125隻以下、総トン数5万トン未満
  3. 各船艇1500排水トン未満
  4. 速力15ノット未満
  5. 武装は海上保安官の小火器に限る
  6. 活動範囲は日本沿岸の公海上に限る

海上保安庁の創設にあたり、第二復員局から掃海業務を引き継いでいた運輸省海運総局掃海管船部掃海課(田村久三課長)も、保安局掃海課として海上保安庁に移管されることとなった。

 

 

これらの部隊は、引き続き第二次世界大戦中に敷設された機雷に対する掃海・航路啓開作業にあたっていた。

 

しかし1950年(昭和25年)に勃発した朝鮮戦争において、洋上戦力で劣る北朝鮮軍は機雷戦を展開しており、一方、それに対処すべき国連軍は対機雷戦戦力の不足に悩まされていた。

 

 

このことから、アメリカ極東海軍から運輸大臣への命令に基づき、海上保安庁より掃海部隊が派遣され、朝鮮半島海域において特別掃海活動を実施することとなった。

 

 

これらの活動はおおむね順調に遂行され、米側より非常に好評であった。

 

 

しかし元山上陸作戦に伴う同地での掃海活動では、第2掃海隊のMS14号艇が掃海中に触雷・爆沈し、乗組員1人が殉職、18名が重軽傷を負う被害を出した。

 

その後、海保側指揮官が掃海活動の方針変更を具申したのに対し、米軍側指揮官がこれを恫喝的な態度で拒絶し、帰国か作業続行かを要求したことから、第2掃海隊の残り3隻がただちに帰国するという事態になっている。

 

 

1952年(昭和27年)には第3次吉田内閣の下、より軍事組織に近い海上警備隊(沿岸警備隊)が海上保安庁附属機関として組織されたが、これはまもなく警備隊として分離され、後の海上自衛隊となった。

 

保安庁(のちの防衛庁、2007年以降は防衛省)創設に際して、治安組織の一元化の見地から、海上保安庁も海上公安局に改組されて保安庁の下に置かれることになっていた(保安庁法及び海上公安局法)。ところが、海上保安庁側の猛反発により、結局は保安庁法の海上公安局に関する規定及び海上公安局法は施行されないまま廃止され、それに代わる防衛庁設置法や自衛隊法が制定された。

 

 

そのため、海上保安庁は改組による消滅を免れ、現在に至るまでその状況が存続している。