大東亜戦争で日本人とともに戦ったのに事実と全く逆のことを教える韓国の学校 | 戦車のブログ

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朝鮮半島人が戦後何を思ったか「戦勝国人だ」と自ら言い出した。

 

しかし、彼等は戦争中は「日本兵」として戦った。

 

強制的に日本兵になったのではない、志願兵だ。

 

昭和19年当時の朝鮮で製作された映画「兵隊さん」を見てもよく解る。

 

以下産経ニュースより転載

 

 

 

 韓国はことあるごとに自国を「第2次大戦の戦勝国である」と主張し、学校の教科書でも「韓国人は連合軍の一員として日本と戦った」と教えている。だが、事実は全くその逆である。(夕刊フジ)

 

 

 日米開戦に至るまで、朝鮮の人々は日米交渉を固唾をのんで見守り、米国の一方的要求に切歯扼腕した。「米英撃つべし」の声が日増しに高まり、1941年12月8日、真珠湾奇襲が報じられると、彼らは内地の日本人に勝るとも劣らぬほど熱狂し「聖戦完遂」に立ち上がったのだ。

 

 

 

 同月14日には、朝鮮の人々による朝鮮臨戦報国団全鮮大会が開催され、戦後商工大臣になった詩人の朱耀翰(チュ・ヨハン)は次のように訴えている。

 

 

 「正義人道の仮面を被り、搾取と陰謀をほしいままにしている世界の放火魔、世界第一の偽善君子、アメリカ合衆国大統領ルーズベルト君」「しかし、君らの悪運は最早尽きた」「一億同胞…なかんずく半島の二千四百万は渾然一体となって大東亜聖戦の勇士とならんことを誓っている」

 

 

 

 こうして大東亜戦争が始まると、特別志願兵募集に朝鮮の若者が殺到した。

 

 

42年には、採用数4077人に対し、25万4273人が応募している。

 

 

適齢期の健康な男子の大半が志願したことになる。

 

 

朝鮮は儒教国家であり、応募するには父母、親族の許しが必要であった。

 

 

大東亜戦争へ対する朝鮮民族全体の圧倒的な支持があったことがうかがわれる数字である。

 

 

 

 このような高倍率を突破して合格した青年たちは、当然ながら優秀であり勇敢だった。

 

 

38年に志願兵第一期生として入隊した崔慶禄(チェ・ギョンロク)はニューギニア戦線で一個小隊を率いて米軍に切り込みをかけ、全身に被弾した。

 

 部下の出田上等兵に担がれて後退し、新兵当時から彼に目をかけていた参謀長の小野武雄大佐がこれを発見した。

 

 

「彼を死なせては陛下と朝鮮人民に申し訳がたたん」と叫んで手厚く後送し、ようやく一命を取りとめた。(=出田上等兵はその場で絶命、小野大佐も戦死した)

 

 

 

 崔慶禄は戦後、外交官となり駐英、駐日大使などを歴任している。駐日大使着任時には、天皇陛下に信任状を奉呈する際、通常10分のところ、かつての大元帥陛下と切り込み隊長は40分にわたって話し込んだという。万感の思いがこみ上げたのではないだろうか。

 

 

 大東亜戦争で、朝鮮の人々はよく戦った。軍人と軍属合わせて合計24万人あまりが前線に赴き、アジアの植民地を解放するために日本人と生死をともにしたのだ。

 

 

 

 ■松木國俊(まつき・くにとし) 朝鮮近現代史研究所所長。1950年、熊本県生まれ。73年、慶応大学を卒業し、豊田通商に入社。直後から韓国担当を務め、80~84年、ソウル事務所に駐在する。2000年に退社。韓国問題を長く研究しており、「慰安婦の真実国民運動」前幹事長。著書に『こうして捏造された韓国「千年の恨み」』(ワック)、『日本が忘れ韓国が隠したがる 本当は素晴らしかった韓国の歴史』(ハート出版)など。

 

(産経ニュース)

 

崔 慶禄(チェ・ギョンロク、최경록)は、1938年、日本陸軍に志願(志願兵1期)。

 

 

歩兵第78連隊で下士官候補生試験に合格した後、陸軍士官学校の試験にも合格した。

 

 

入校待機状態である途中、南方に送られニューギニアの戦いを経験した。

 

1944年、豊橋予備士官学校を卒業して少尉に任官。

 

 

戦後は韓国軍に入隊、1946年1月、軍事英語学校卒業、任少尉(軍番10011番)。

 

第1連隊の創設に参与し、同連隊A中隊(中隊長:蔡秉徳大尉)小隊長。

 

 

1948年6月21日、第11連隊長となり済州島に赴任した。

 

 

1950年6月、朝鮮戦争が勃発すると臨津江の戦闘で勇戦した。

 

同年7月、首都師団参謀長。

 

 

1951年、憲兵司令官。1952年、国防部第1局長。

 

1953年、アメリカ陸軍指揮幕僚大学卒業。

 

 

1955年第2軍副司令官。

 

1958年、国防大学院卒業。

 

1959年、国防大学院院長。1960年、参謀次長。

 

同年4月に起きた四月革命では宋堯讃戒厳司令官の発砲命令に対して中断するように命じた。

 

 

同年5月に許政は、崔を陸軍参謀総長に採用しようとしたが、張勉と縁があった崔は陸軍参謀総長を遠慮した。

 

しかし張勉が国軍人事を断行し、崔は陸軍参謀総長に就任した。

 

 

1961年3月 第2軍司令官。同年5月に起きた5・16軍事クーデターは消極的に支持していた。

 

翌6月に予備役編入。

 

1963年3月21日、朴正熙の軍事政権延長提案に反対するデモを起こした。

 

 

駐メキシコ大使、駐イギリス大使、交通部長官、駐日大使を歴任した。

 

1987年、在郷軍人会会長。

 

こういう朝鮮半島出身の軍人もいたんだね。