スプラトリー諸島海戦 | 戦車のブログ

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1988年3月14日、ベトナムが統治していた南沙諸島・ジョンソン南礁を中華人民共和国が攻撃し、統治下とする日。






スプラトリー諸島海戦は、中華人民共和国とベトナムの間で1988年3月14日に行われた海戦。




ベトナムと中国が領有権を争ったスプラトリー諸島(南沙諸島)のジョンソン南礁(赤瓜礁)において、中華人民共和国海軍とベトナム人民海軍が衝突し、中国軍が勝利した。





中国は、この海戦でジョンソン南礁(赤瓜礁)のほか、ファイアリー・クロス礁(永暑礁)、クアテロン礁(華陽礁)、ヒューズ礁(東門礁)、ガベン礁(南薫礁)、渚碧礁といった岩礁または珊瑚礁を手に入れたが、空軍の支援が届かないため海軍がすぐ中国本土に撤退、ベトナムは残りの29の島や暗礁を支配することとなった。






この戦闘でベトナム水兵70名以上が死亡したし、輸送船2隻が沈められ、強襲揚陸艦も大破させられるなど、ベトナム側の被った被害は甚大であった。





 「一瞬の出来事だった。声を出す時間さえなかった」



 ズォン・バン・ズン(49)は死線をさまよった瞬間を、こう振り返り、表情を曇らせた。



 1988年3月14日。



ベトナム海軍の工兵だったズォンは、スプラトリー(中国名・南沙)諸島のジョンソン南(中国名・赤瓜)礁にいた。



2日前に、ベトナムが実効支配をしていたこの岩礁の補強工事の任務を受けたばかりだった。



 2隻の輸送船と戦車揚陸艦に分乗した100人以上のベトナム兵が現地に到着したのは同13日午後4時ごろ。



そこには、五星紅旗をはためかせた中国海軍のフリゲート艦3隻が待ち構えていた。






 「中国艦船は、われわれの船を取り囲むような形で止まった。こちらの船に積まれているのは資材ばかり。まともな装備もない、ほとんど丸腰の状態だった」



 にらみ合いは半日続いた。事態が急変したのは14日午前4時ごろだった。



 「仲間たち32人で岩礁に上陸し、ベトナム国旗を立てた。中国軍は気になったが、仲間が『前にも同じような妨害があったが、何も起こらなかった』と言っていた。まさか攻撃はしてこないだろう、と思っていたが…」




 ベトナム兵の動きを確認した中国軍の艦船からスピードボートが出動し、輸送船の周囲をぐるぐると回り始めた。



約50人の中国兵を乗せたボート3台はやがて、ベトナム兵が守る岩礁の国旗の方向へと進路を変えた。



 兵団の先頭にいた中国兵がベトナム兵の輪の中に飛び込む。



その直後、国旗を守る32人のベトナム兵に向けられた銃口が一斉に火を吹いた。





 「丸腰のわれわれはひとたまりもなかった。仲間が折り重なるように倒れて、私自身も頭と腹部を撃たれて気絶した」



 ズォンは脱出を試みたが、中国側に拘束・連行された。



広東省の収容所で3年間、捕虜として過ごしたという。



岩礁に上陸した32人で生き残ったのは、ズォンを含めてわずか3人だった。




 銃撃と同時に中国艦船はベトナム艦船に攻撃を加え、輸送船2隻が沈没し、揚陸艦も大破した。



ベトナム政府の発表では、後に「スプラトリー諸島海戦」と呼ばれる戦闘で、ベトナム兵64人が犠牲となったという。




 「ろくに武器も持たない相手を不意打ちし、領土を奪った。相手の弱みにつけ込む。それが中国のやり方だ」






 中国は、この海戦で戦場となったスプラトリー諸島・ジョンソン南礁のほか、ファイアリクロス(中国名・永暑)礁など、複数の岩礁やサンゴ礁を奪取し、実効支配を始めた。




支那は70年以上前の支那事変は日本の侵略行為と今も叫ぶが、30年前の侵略は正当化し、今も埋立地を軍事化している。


尖閣諸島は日本に自衛隊があり、軍事的にベトナムの様な貧弱な海軍でないからこそ手を出せないだけだ。


もし自衛隊がなければもう支那の国旗が尖閣諸島に翻っているだろうね。