神田カルチェ・ラタン闘争 | 戦車のブログ

戦車のブログ

戦車のことなど書いてます。
アメンバー・メッセージ、ペタは受け付けていませんので御了承下さい。
ブログの内容・文章・画像を許可無く無断転載を禁じます。
悪質な場合は著作権侵害となりますのでご注意下さい。



1969年1月18日、神田カルチェ・ラタン闘争で東大紛争を支援するとして神田駿河台近辺の大学生らが明大通り一帯をバリケード封鎖した日。



今も昔も反日左翼の共産主義者は自己主張のためなら、道路を占拠し一般市民の迷惑なんて考えない。


こういうことをする奴に政治や国の舵取りなんてさせちゃいけないね。


この時の残党がどれくらい民主党や共産党にいるのか・・・。






神田カルチェ・ラタン闘争は、1968年6月21日に社学同(=ブント=社会主義学生同盟。共産主義者同盟の学生組織)が東京神田駿河台の学生街で起こした解放区闘争。



駿河台の通り2か所にバリケードを築いたが、たちまち機動隊に突破された。





この年8月にオーストラリアで、アスパック(ASPAC=アジア太平洋閣僚会議)の開催が計画されており、日本からも外務大臣が出席の予定であった。



社学同は、この会議が日本帝国主義のアジア再侵略への一歩であり、70年安保の実質化であると位置づけていた。




そこでこの日、アスパック開催抗議の実力闘争を組もうとして、この「神田カルチェ・ラタン闘争」を呼びかけた。




各地から集まった社学同700名は、中央大学中庭で集会を開いた後、“神田を日本のカルチェ・ラタンにせよ”というスローガンで闘争を展開し、駿河台の通り2か所に、中央大学や明治大学から持ち出した机などを使ってバリケードを築いた。




しかし機動隊がバリケード解除に来ると、あまり衝突することもなく学生側が退避した。



結局、周辺の学生がたくさん集まり、社学同は明大大学院前で約3000人の学生を集めて集会を行ってから解散した。




1968年には、世界的にベトナム反戦運動が盛り上がった。「沈黙することは戦争に手を貸すこと」という雰囲気さえ醸成されていた。



ソルボンヌ大学(パリ大学の文学・語学部門)では、学制改革を要求する学生の激しい闘争で、カルチェ・ラタンやサンミッシェルで解放区を実現しただけではなく、労働者のストライキと工場占拠に波及し、フランスの5月革命と呼ばれる状況を引き出していた。




イタリアの諸大学でも、ベトナム反戦運動から波及した学生による大学占拠が起きたり、ベトナム反戦運動はヨーロッパ各国に広がっていた。



社学同は、中央大学(もちろん移転前であり、理工学部以外は駿河台にあった)と明治大学に多くの同盟員・シンパ(sympathizer)がいたことから、パリの学生運動の拠点であったカルチェ・ラタンになぞらえて、駿河台で解放区闘争を組もうとしたものであった。





1968年から1969年にかけて、全国の大学に学生運動が広がり、全共闘が結成される大学も多かった。



街頭デモでは、そうした学生と機動隊が激しく衝突することが多かった。



こうした衝突で神田地区におけるものを「神田カルチェ・ラタン」と呼ぶことがある。



しかし、これは誤りである。



この時代に学生運動に参加していた人でも、この誤用をしていることがある。



次はその例である。



「(1969年1月18日)中大、明大などの学友とともに神田・お茶の水カルチェラタン解放区闘争を闘い、順天堂病院から、東大構内への進攻をはかる」。