グアムの戦い  日本軍総攻撃 | 戦車のブログ

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アデラップ方面の歩兵第18連隊守る山地地域でも、相変わらずパラソル台と本田台は健闘していたが、駿河台と日向台は突破されており、アメリカ軍は奥深くまで侵攻していた。




日本軍のこの2日間での損害があまりに大きく、特に各部隊の指揮官の死傷率が高く、70%の指揮官が死傷していると推定され、実際の兵員の損失以上に戦力の低下が著しかった。



また火砲も90%が破壊されてる上に爆薬も底を尽いており、敵戦車に対抗する手段もなくなりつつあった。


第31軍司令官小畑英良中将


以上の状況を踏まえて下記の2案が提議された。



1、師団の全力をマンガン山に集結しアデラップ岬に向かって突撃し玉砕覚悟の最終決戦を挑む。



2、グアム島の北東部の密林地帯に撤退し、持久戦行う。



会議は紛糾したが、結局持久戦行っても、アメリカ軍のグアム島利用を止めることはできず、また、日本軍らしい最後を飾ろうという意見に傾き、第31軍司令官小畑英良中将は、7月24日に残存戦力による総攻撃を決意、25日未明の総攻撃を命令し、大本営に決別の電文を打電した。






その間もアメリカ軍の激しい攻撃は続き、日本軍が集結しているマンガン山に向かって戦車伴った進撃をしてきたが、パラソル台でアメリカ軍に痛撃与えてきた石井中隊の対戦車肉弾攻撃や、残存野砲による直接照準の水平射撃で戦車数両撃破した。




苦戦が続くグアム戦で連日に渡る勇戦敢闘を続けた石井中隊に対して、戦史叢書は「まさに国軍の真価を如実にしめした。」賞賛している。



後に中隊長の石井中尉には小畑軍司令官より感状が授与されている。



日没と共に日本軍の総攻撃が開始された。マンガン山から出撃した日本軍はアサン海岸に向けてまっしぐらに白兵突撃を行った。


独立第10連隊長や、序盤でアメリカ軍に痛撃を与えた第18連隊第3大隊の行岡大隊長も率先し陣頭に立って突撃、突撃の前面にあった海兵第21連隊は、各所で日本軍の激しい白兵突撃に前線を突破され、海兵第21連隊第3大隊長は指揮所を占領され機密が漏れるのを恐れて、暗号機を土中に埋めている。



また日本軍は物資集積所や野戦病院にも突入し、野戦病院では軍医やコックまでが手伝って負傷兵を連れて慌てて退却している。



また、海兵第9連隊第2大隊は7度にも渡って日本軍の突撃を受けて、950名の日本軍を斃したが、戦力が50%にまで落ち込んだ。



ロバート.E.クッシュマン


後の25代海兵隊総司令となったロバート.E.クッシュマン(当時中佐、後に大将)の大隊は白兵突撃してくる日本軍相手に、激しい戦闘を繰り広げ600名の日本兵を斃したが、クッシュマンの大隊も62名の戦死者と179名負傷者を出した。



クッシュマンはこの戦闘の指揮で海兵隊の最高勲章である海軍十字章を受賞している。


ルイ·ヒュー·ウィルソンジュニア


また、クッシュマンの次の26代海兵隊総司令となったルイ·ヒュー·ウィルソンジュニア(当時大尉 後に大将)も日本軍の激しい攻撃に5時間の間に3度も負傷しながら、ライフル中隊を巧みに指揮し10時間に渡り日本軍の総攻撃から陣地を守り切ってメダル・オブ・オナーを受賞した。





以上の様に、日本軍の総攻撃はアメリカ軍に打撃は与えたが、火砲も少なく弾薬も尽きた白兵戦突撃だけでは死傷者が増大するばかりであり、独立第10連隊長も行岡大隊長も壮烈な戦死を遂げ、25日中には総攻撃の勢いは減衰し、26日日中にほぼ終息した。



総攻撃には、グアムから疎開が遅れた一般邦人男子数十名も志願の上で抜刀隊を編成し軍と運命を共にしている。



21日から25日にかけて、オロテ半島と第一飛行場を海軍陸戦隊や戦車9連隊第1中隊と協力し死守してきた第38連隊第2大隊であったが、激しい戦闘により、海軍諸部隊も含めた残存兵力が2,500名まで減少していた。



一方で、アメリカ軍は攻めあぐねていたオロテ半島に対し、予備兵力であった第77歩兵師団の主力までを戦場に一気に注ぎ込み、第1臨時海兵旅団を主力に全力で半島最深部まで侵攻してきたため、奥城大隊長と須磨(オロテ)地区海軍陸戦隊楠本司令は、軍主力に呼応しての総攻撃を決意した。



第2大隊と海軍陸戦隊は、25日夜より降り出した豪雨を利用して夜襲をかけたが、アメリカ軍は0時からのわずか2時間の間に26,000発の砲弾を日本軍に浴びせた。



一方日本軍は武器弾薬も尽き、一部の兵員は熊手や杖や野球バットまで武器代わりに持って突撃した。



部隊はアメリカ軍陣地に突入するも、激しい集中砲火に奥城大隊長は重傷を負い自決し、突撃部隊も26日4時には壊滅した。




楠本司令も残存部隊を率いて突撃を敢行し27日に戦死した。





その後、1941年に日本軍に占領されたオロテ半島の旧アメリカ軍海兵隊宿舎を28日に奪還、29日には半島全体を占領し、同日にレイモンド・スプルーアンス大将やホーランド・スミス中将らアメリカ軍指揮官らが立ち合いの元で国旗掲揚式が行われた。






アメリカ軍からすれば3年越しのリベンジを果たした事となった。



このオロテ半島を巡る攻防戦で日本軍は残存の2,500名の殆どが戦死したが、アメリカ軍は戦死・行方不明153名、負傷者721名であった。




日本軍の壊滅と掃討戦



総攻撃を撃破したアメリカ軍は、翌日の26日朝から、マンガン山の日本軍残存部隊を攻撃、第48旅団重松旅団長以下司令部要員は自ら銃を取って戦ったが全滅し、重松旅団長も戦死した。



第31軍司令官小畑英良中将と第29師団長高品彪中将は、残存兵力を持って北部密林地帯での持久戦を決意し、各部隊へ持久戦移行の命令を出した。





司令部のあった本田台より小畑中将が先に脱出したが、師団長の高品彪中将は、28日に戦車数十両で本田台に攻めてきたアメリカ軍との戦闘に巻き込まれて戦死した。



師団の指揮は小畑軍司令官が師団長代理として直卒したが、軍として組織的な作戦は困難となっていた。



小畑中将は北部撤退当初には約3,000名の兵士を掌握していた。


日本軍残存部隊は、ジャングル内を追撃してくるアメリカ軍相手によく遅滞戦術を行った。



8月2日には、パリガタ(日本名 春田)地区で戦車十数両、歩兵200名のアメリカ軍を、歩兵第38連隊の第3歩兵砲中隊が迎撃し、戦車2両を撃破し歩兵100名を死傷させたが、馬場中隊長は戦死し、残った部隊はアメリカ戦車に肉弾攻撃を行った。




翌3日には平塚方面に攻撃してきたアメリカ軍に残存砲兵で集中砲撃を加え、数両を撃破し、十数両を擱座させたが、アメリカ軍の反撃で砲兵は全滅している。





日本軍は善戦はしていたが、死傷者も増加していった。



また飢えや病気などで斃れる兵士も増えていた。



アメリカ軍は次第に日本軍の防衛線を突破すると8月10日には第31軍司令部のある又木山に達したが、その際には小畑中将が掌握している戦力はわずか300名となっていた。



これ以上の撤退は無理と察した小畑軍司令官は11日に最後の総攻撃を命令した。



残存していた戦車10両は果敢にアメリカ軍戦車に戦車戦を挑むも、戦車の性能の差は大きく全両撃破された。



もはや殆ど武器も持たない日本軍歩兵は銃剣突撃したが全滅し、小畑軍司令官と田村参謀長も自決、日本軍の組織的な抵抗は完全に終わった。



その後にアメリカ軍は北部に達し、島の完全占領を成し遂げたが、一部の生き残った日本兵は飛行場を襲撃したり、交通・通信網を遮断するなどのゲリラ戦を行って執拗に抵抗を行った。



しかし、殆どの敗残兵はゲリラ戦というよりは日々生き延びることがせいぜいであり、密林内には食物はおろか飲み水すらまともになく、兵士たちは葉に付いた露で渇きを癒し、蛙やヤドカリまで口にして飢えを凌ぐ有様であった。






アメリカ軍は日本軍の敗残兵を軍用犬も活用し掃討を行った。グアム島では軍用犬が大規模に投入されており、350匹の軍用犬とハンドラー(調教師)90名が日本軍の狙撃兵探索や、洞窟や陣地の捜索や、伝令の任務を就いた。



また、兵士が就寝中に日本軍の夜襲を警戒する任務も行い、兵士の安眠の手助けをしている。



グアム戦中に死んだ軍用犬は25頭で負傷犬は20頭だった。




陣地構築の際の強制労働や占領時の収奪などで日本軍に恨みを抱いていた現地チャモロ人も掃討作戦に協力している。



密林に潜んでいた日本兵は7,500名と推定されたが、捕虜となったのは合計で1,250名に過ぎず、他はアメリカ軍の掃討で戦死するか、自決したか、病気や飢えで亡くなった。



それで最後の日本兵が降伏したのは終戦後の昭和20年9月4日の事であった。





グアムの占領を成し遂げたアメリカ軍は、皮肉にも日本軍が設営し、殆どを戦力とはならなかった飛行場を整備の上で、サイパン島等とともに日本本土への戦略爆撃の拠点とした。



グアムやサイパンより飛び立ったB-29は、日本の多くの都市を灰燼に帰し、日本の継戦能力を奪っていった。



この飛行場は、後にグアム国際空港となり、今日においてもグアムの空の玄関となっている。



また、グアムはアメリカ陸海軍の前線基地となり、この後のフィリピン・硫黄島・沖縄攻略で重要な役割を果たした。




以上のように、グアム島を含むマリアナ諸島の喪失が、大戦の行方を決定づけた。


東久邇宮稔彦王


後に太平洋戦争終結後初の内閣総理大臣となる東久邇宮稔彦王は、この戦いの敗北で日本の敗北を察したという。




一方日本軍の方も、グアム戦などマリアナ諸島の戦いでの、アメリカ軍上陸前に今までにない激しく効果的な艦砲射撃を浴び、陣地や兵員に甚大な損害を受けたこと、また、上陸後も水際撃滅策を軸とし堅牢な陣地構築を十分に行わず、突撃や夜襲を多用して早期に多くの戦力を失ってしまったといった教訓を大本営陸軍部の編纂した「戦訓特報」により全軍に通知した。この通知内容も十分とは言えなかったが、その戦訓を更に詳細に検証し、ペリリューの戦い・硫黄島の戦い・沖縄戦では徹底した陣地構築を行い、無用な突撃も禁止したことにより、アメリカ軍を大苦戦させている。


横井 庄一


グアムでの戦いが終結した後、横井庄一伍長ら数名の日本兵が終戦を知らずにジャングルに潜伏し続けていた。



1人生き残った横井は1972年(昭和47年)にグアム島住民に発見。



保護された後、日本へ帰国している。





グアム島には国立の施設も含めて多数の戦争関連施設や戦争遺構があるが主なものを挙げる。



今日でも戦跡巡りのツアーが多く行われており、グアム島観光の定番メニューとなっている。



また、これ以外にも、ビーチやジャングルの中とかに多くの戦跡が残っている。



南太平洋戦没者慰霊公園


太平洋戦争国立歴史公園



ガーン・ポイント・ビーチパーク


太平洋戦争博物館(民間の博物館)


アサン湾太平洋戦争国立公園


横井ケイブ