きちがいローラント ローラント・フライスラー | 戦車のブログ

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ドイツが法治国家といえない人治国家だったナチスドイツに「きちがいローラント」と呼ばれた裁判官がいた。
独裁国家のような国にはこうした法律があっても裁判官次第で大量に死刑判決が出ることがある。
中国や北朝鮮・韓国のような国がこういう感じだね。
中国は冤罪が多いし、韓国は政治が司法に介在する、北朝鮮は語るまでもない。



ローラント・フライスラー(Roland Freisler、1893年10月30日 - 1945年2月3日)は、ドイツの法律家、裁判官。第二次世界大戦中、ナチス政権下のドイツにおける反ナチス活動家を裁く特別法廷「人民法廷」の長官を務め、不法な見せしめ裁判で数千人に死刑判決を下した。



あだ名は「きちがいローラント」、「大根役者」。




ニーダーザクセン州ツェレに、技術者の息子として生まれる。


1912年にイェーナ大学で法学の勉強を始めたが在学中に第一次世界大戦が勃発して軍に志願、士官候補生、次いで少尉として従軍し、1915年にロシア軍の捕虜となってシベリアの捕虜収容所に送られた。


1917年にロシア革命が起きたのちは、ウクライナでボリシェヴィキの政治委員を務めていた。


この共産主義者だったという前歴のため、ナチス党首アドルフ・ヒトラーも彼を「あの元ボリシェヴィキ」と呼んだという話もあり、党友からは軽蔑されることもあったらしい。



終戦後の1920年、ドイツに帰還。イェーナ大学に復学し、1922年に法学博士号を取得。


従軍期間のブランクを考えれば速い博士号取得といえる。


1924年にカッセルでやはり法律家だった弟オスヴァルト・フライスラー(de:Oswald Freisler)と共に弁護士事務所を開設。


1925年、ナチ党に入党。1928年に結婚し、二男をもうける。


カッセル市議会議員となり、のちヘッセン・ナッサウ州議会議員となる。


弁護士としてナチ党員の弁護を担当した。


1928年のナチス地区指導者による党中央への報告では「演説者として優れたレトリックを持っている。大衆向きではあるがよく考える人には拒絶されるだろう。フライスラー同志は演説者としては使えるが、指導者としては信用できず他の意見に流されやすいため不適格である」と評されている。


彼はナチス突撃隊で士官の階級だったが、1934年の「長いナイフの夜」以降は突撃隊から離れている。



1932年、プロイセン州議会議員に当選。


同年プロイセン州参事官、次いで局長に昇進。


ナチスが政権を獲得したのち、1934年にプロイセン州司法次官となり、ライヒ司法次官を兼ねる。


その職責で、今日までドイツ刑法に一部が残っている法改正を行った。


またこの立場でヴァンゼー会議にも出席している。


しかし優れた法律知識を持ち熱心なナチ党員でありながら、次官で出世が止まっていたのは、彼が独善的で後援者がいなかったこと、弟オスヴァルトがナチ党員でありながらカトリック教会の反ナチ活動家を弁護して無罪判決を勝ち取り、党の威信を下げたことなどが指摘されている。


弟オスヴァルトはヒトラーの怒りを買って党を除名されたが(1939年に自殺)、彼自身はヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相のとりなしを受けている。



フライスラーとゲッベルスはナチス左派という立場で近かったためであるとされる。




死の裁判官


第二次世界大戦中の1942年8月、法相に転出したオットー・ティーラックの後任として、フライスラーはヒトラーにより人民法廷長官に任命された。


人民法廷(人民裁判所または民族裁判所とも訳される)とは、国家反逆罪の被告を裁くため1934年に設置され、後に扱う刑法の範囲が拡大された。


フライスラーの長官就任後、死刑判決の数が激増した。


彼が担当した裁判の9割は死刑あるいは終身禁固刑判決で終わっている。


たいてい判決は開廷前から決まっていた。


彼の長官在任中に人民法廷は約5000件の死刑判決を下したが、うち2600件はフライスラー自身が裁判長を務める第一小法廷が下したものである。


この死刑判決の数は、人民法廷が設置された1934年から1945年の期間中、他の裁判長により下された死刑判決の合計よりも多い。




その裁判は不当なものだった。


フライスラーが怒号するように罪状をあげつらう中、被告はほとんど弁護をさせてもらえず、反論も許されない。白バラのメンバーの際の裁判が物語るように、弁護人は形式的に存在するだけだった。


フライスラー裁判長は被告とのやり取りで「"Ja"(はい)か"Nein"(いいえ)か!明確に答えろ!」と高圧的に臨み、また被告の言葉の端々を捉え話をすり替えたりして、裁判を被告の不利な方向に持っていった。


とりわけ1944年7月20日に起きたヒトラー暗殺未遂事件の被告に対する裁判の際は甚だしく、プロパガンダ映画のため記録しようとしても、彼の怒号のせいで被告の声を録音することが不可能なほどであった。


特に、ウルリヒ・ヴィルヘルム・シュヴェーリン・フォン・シュヴァーネンフェルトに対するやり取りの映像は有名で、ヒトラー暗殺計画を取り扱うテレビ番組などで非常によく流される。


この映画は、あまりにも狂人じみたフライスラーの態度が、国民に被告人らへのシンパシーとナチスへの不信感を抱かせるおそれがあるという理由で公開されることはなかった。


また被告の一人エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベンは法廷でベルトやズボン吊りを外され、衆人環視の中笑いものにされた。


ヒトラー暗殺計画の参加者のほか、「白バラ」のメンバーなど反ナチス抵抗運動の参加者たちも彼の不当な裁判で裁かれ、処刑されていった。


死とその後

1945年2月3日、ファビアン・フォン・シュラーブレンドルフに対する裁判中、裁判所がアメリカ軍の空襲に遭い、瓦礫の下敷きとなったフライスラーは死体で発見された。


防空壕に逃げ遅れて爆弾の破片に当たったとも、空襲警報を無視して書類保管室で裁判資料を見ていて下敷きになったともいわれる。


フライスラーの遺言によると、2つの不動産が夫人の所有であり、遺産ではないとされていた。


しかし、両不動産は没収され、後になって遺産への賠償金10万マルクの代償だと説明された。


未亡人が異議を出したが、連合軍の審査機関は異議を認めなかった。




戦後、フライスラー夫人は姓を結婚前のものに戻し、ミュンヘンに移って、戦争中の夫の行いについて知ろうとはしなかった。


1985年になって、フライスラーの未亡人に対する年金支給額が1974年に400マルク引き上げられていたことが報じられた。


年金庁はマスコミに引き上げの理由を問われ、フライスラーの専門的知識を考えれば戦後高位に就いたはずなので、夫人も高額の年金を受ける権利を有すると答えた。


この措置がバイエルン州議会で問題となったが、バイエルン州政府は(道義的にはともかく)法的には問題ないと判断した。


司法界では戦後もナチス時代との連続性があったことが指摘されていたこともあり、「過去とどう向き合うか」について西ドイツ社会で大きな議論を呼んだ。


未亡人が死去した1997年になり、戦争犠牲者への年金を定める法律が改正され、ナチス時代に人道に対する罪を犯した者、あるいは法治国家原則に反した者は、当時の職務に対する功労の年金が遺族にも支給されないことになった。




ローラント・フライスラーの残した言葉がある。


「我々は法曹の戦車軍団である」


「忠誠をこめて。あなたの政治的兵士・ローラント・フライスラー」(1942年10月15日、ヒトラーに宛てた手紙の結び)


「見苦しい!何故ズボンを弄くっているのかね?この薄汚い老いぼれめ!!」(ヒトラー暗殺未遂事件の裁判でエルヴィン・フォン・ヴィッツレーベンに対して)


こんな裁判官が日本に現れないことを祈る。