ビタミンの父麦飯男爵  高木 兼寛海軍軍医総監 | 戦車のブログ

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高木 兼寛(たかき かねひろ、嘉永2年9月15日(1849年10月30日) - 大正9年(1920年)4月13日)は日本の海軍軍人、最終階級は海軍軍医総監(軍医中将相当)。


医学博士。男爵。


東京慈恵会医科大学の創設者。


脚気の撲滅に尽力し、「ビタミンの父」とも呼ばれる。


「けんかん」とも呼称される(有職読み)。


当時なじみの薄かったカレーをかっけの予防として海軍の食事に取り入れた(海軍カレー)。



薩摩藩郷士・高木喜助兼次の長男として日向国諸県郡穆佐郷(現・宮崎県宮崎市、昭和の大合併前の東諸県郡穆佐村、昭和の大合併後から平成の大合併前までは東諸県郡高岡町)に生まれる。


通称は藤四郎。穆園と号す。


18歳のときから薩摩藩蘭方医の石神良策に師事、戊辰戦争の際には薩摩藩兵の軍医として従軍した。明治2年(1869年)、開成所洋学局に入学し英語と西洋医学を学ぶ。




明治3年(1870年)、薩摩藩によって創設された鹿児島医学校に入学するが、校長の英人ウィリアム・ウィリスに認められて教授に抜擢された。


明治5年(1872年)、海軍医務行政の中央機関・海軍軍医寮(後の海軍省医務局)の幹部になった石神の推挙により一等軍医副(中尉相当官)として海軍入り。


海軍病院勤務の傍ら病院や軍医制度に関する建議を多数行ない、この年に大軍医(大尉相当官)に昇進。


軍医少監(少佐相当官)であった明治8年(1875年)、当時の海軍病院学舎(後に海軍医務局学舎を経て海軍軍医学校となる)教官の英国海軍軍医アンダーソンに認められ、彼の母校英国聖トーマス病院医学校(en:St Thomas's Hospital Medical School)(現キングス・カレッジ・ロンドン)に留学。


在学中に最優秀学生の表彰を受けると共に、英国外科医・内科医・産科医の資格と英国医学校の外科学教授資格を取得し明治13年(1880年)帰国。


帰国後は東京海軍病院長、明治15年(1882年)には海軍医務局副長兼学舎長(軍医学校校長)と海軍医療の中枢を歩み、最終的に明治16年(1883年)海軍医務局長、明治18年(1885年)には海軍軍医総監(少将相当官。海軍軍医の最高階級)の役職を歴任した。




明治21年(1888年)日本最初の博士号授与者(文学・法学・工学・医学各4名)の列に加えられ、医学博士号を授与された。さらに日露戦争で麦飯の有効性が注目されていた明治38年(1905年)には、華族に列せられて男爵位を授けられた。


この時、人々は親愛と揶揄の両方の意味をこめて彼のことを「麦飯男爵」と呼んだと伝えられる(死去の直後に従二位の位と勲一等旭日大綬章が追贈された)。



明治25年(1892年)予備役となったが、その後も「東京慈恵医院」「東京病院」等で臨床に立ちつつ、貴族院議員、大日本医師会会長、東京市教育会会長などの要職に就いた。


1914年(大正3年)3月1日に退役した。


長男は医学者の高木喜寛、次男は医学者の高木兼二。





彼は日本の医学界が東京帝国大学医学部・陸軍軍医団を筆頭にドイツ医学一色で学理第一・研究優先になっているのを憂い、英国から帰国後の明治14年(1881年)、前年に廃止された慶應義塾医学所初代校長、松山棟庵らと共に、臨床第一の英国医学と患者本位の医療を広めるため医学団体成医会と医学校である成医会講習所を設立する。



当時講習所は夜間医学塾の形式で、講師の多くは高木をはじめとする海軍軍医団が務めた。


成医会講習所は明治18年(1885年)には第1回の卒業生(7名)を送り出し、明治22年(1889年)には正式に医学校としての認可を受け成医学校と改称した。


さらに明治15年(1882年)には芝の天光院に、貧しい患者のための施療病院として有志共立東京病院を設立、院長には当時の上官である戸塚文海海軍医務局長を迎え自らは副院長となった。


そして徳川家の財産管理をしていた元海軍卿勝海舟の資金融資などを受け、払い下げられた愛宕山下の東京府立病院を改修し有栖川宮威仁親王を総長に迎えて明治17年(1884年)移転、明治20年(1887年)には総裁に迎えた昭憲皇太后から「慈恵」の名を賜り、東京慈恵医院と改称して高木が院長に就任した。


一方、ナイチンゲール看護学校を擁する聖トーマス病院で学んだ経験から、医療における看護の重要性を認識し、その担い手となる看護婦の育成教育にも力を尽くした。


陸軍卿大山巌夫人捨松ら「婦人慈善会」(鹿鳴館のバザーで知られる)の後援もあって、明治18年(1885年)日本初の看護学校である有志共立東京病院看護婦教育所を設立し米国宣教師リードらによる看護教育を開始。


明治21(1888年)年には昭憲皇太后臨席のもと第1回卒業生5名を送り出した。


この3つはそれぞれ後に東京慈恵会医科大学、東京慈恵会医科大学附属病院、慈恵看護専門学校となり現在に至っている。




兵食改革と脚気論争


当時軍隊内部で流行していた脚気について海軍医務局副長就任以来、本格的にこの解決にとりくみ、海軍では兵食改革(洋食+麦飯)の結果、脚気新患者数、発生率、及び死亡数が1883年(明治16年)1,236人、23.1%、49人、1884年(明治17年)718人、12.7%、8人、1885年(明治18年)41人、0.6%、0人、以降1%未満と激減した(詳細は「日本の脚気史」を参照のこと)。



高木は、1884年(明治17年)の軍艦筑波号による航海実験も行ってこの兵食改革の必要性を説いた。


この航海実験は日本の疫学研究のはしりであり、それゆえ高木は日本の疫学の父とも呼ばれる。


その後、いわゆる海軍カレーが脚気撲滅にひと役買ったとも言われている。



1885年(明治18年)3月28日、高木は『大日本私立衛生会雑誌』に自説を発表した。


しかし、高木の脚気原因説(たんぱく質の不足説)と麦飯優秀説(麦が含むたんぱく質は米より多いため、麦の方がよい)は、「原因不明の死病」の原因を確定するには、根拠が少なく医学論理が粗雑だった。


このため、東京大学医学部から次々に批判された。


とくに同年7月の大沢謙二(東京大学生理学教授)による反論の一部、消化吸収試験の結果により、食品分析表に依拠した高木の説は、机上の空論であることが実証された。


その大沢からの反論に対し、高木は反論できず、海軍での兵食改革の結果をいくつか公表して沈黙した。


のちに高木は「当時斯学会に一人としてこの自説に賛する人は無かった、たまたま批評を加へる人があればそれはことごとく反駁(はんばく)の声であった」と述懐している。


当時の医学界の常識としては、「食物が不良なら身体が弱くなって万病にかかりやすいのに、なぜ食物の不良が脚気だけの原因になるのか?」との疑問をもたれ、高木が優秀とした麦飯の不消化性も、その疑問を強めさせた。


このように高木の説は、海軍軍医部を除き、国内で賛同を得ることができなかった。




一説には、海軍軍医部は、日露戦争の戦訓もふまえ、海軍の兵食(洋食+麦飯)で脚気を「根絶」したと過信してしまったのではないかとの見解もある。


しかし現実には、高木とその後任者たちのような薩摩閥ではなく、東京大学医学部卒の医学博士本多忠夫が海軍省医務局長になった1915年(大正4年)12月以後、海軍の脚気発生率が急に上昇した。


脚気患者が増えたためであり、1928年(昭和3年)1,153人、日中戦争が勃発した1937年(昭和12年)から1941年(昭和16年)まで1,000人を下まわることがなく、12月に太平洋戦争が勃発した1941年は3,079人(うち入院605人)であった)。



一説には、その理由として、兵食そのものの問題(実は航海食がビタミン欠乏状態)、艦船の行動範囲拡大、高木の脚気原因説(たんぱく質の不足説)が医学界で否定されていたにもかかわらず、高木説の影響が残り、たんぱく質を考慮した航海食になっていたこと、「海軍の脚気は根絶した」という信仰がくずれたこと、脚気診断の進歩もあって見過ごされていた患者を把握できるようになったこと(それ以前、神経疾患に混入していた可能性がある)、などが原因とする見解もある。



麦飯を推奨していた高木が再評価されるのは日露戦争後であり、また脚気と食事の関係に着目した取り組みの延長線上にビタミンの発見があった。




貧民散布論


高木は都市衛生において「貧民散布論」を提唱している。


「下等貧民ノ市内ニ、住居ニ堪ヘサルモノハ、皆去リテ田舎ニ赴クベシナリ」という、東京から貧民を追放しようという今日からみれば非人道的なものであった。


それに対して人道的立場から反対したのが、海軍の兵食改革を批判する陸軍軍医森林太郎(森鴎外)であった。


ただし人道的観点を無視して純粋に医学的見地から考えれば(人間の生命を守るためなら)、高木の貧民散布論は間違ってはいないとも言える。


一方の森林太郎の側では、高木の論に反対はすれど、都市衛生に対して具体的対案がある訳では無かった。