陸軍三長官全てを経験した元帥陸軍大将 杉山元 | 戦車のブログ

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杉山 元 (すぎやま げん/はじめ、1880年(明治13年)1月1日 - 1945年(昭和20年)9月12日)は、大日本帝国陸軍軍人。


元帥陸軍大将従二位勲一等功一級。陸軍大臣、教育総監、太平洋戦争開戦時の参謀総長。福岡県出身。


陸軍士官学校卒業(12期)、陸軍大学校卒業(22期)。


陸軍大臣、参謀総長、教育総監の陸軍三長官を全て経験し元帥にまでなったのは二人しかいない(もう一人は上原勇作)。



福岡県小倉市(現北九州市)に小倉藩士の子として生まれる。


豊津中学を経て、陸軍士官学校12期卒後、日露戦争に従軍。杉山は第12師団隷下の歩兵第14連隊第3大隊副官として出征、1904年(明治37年)10月8日、沙河会戦の一部として行われた本渓湖付近の戦闘で顔面を負傷した。


その傷痕は後まで残り、さらに左目が大きく開かなくなるという後遺症をもたらし、杉山の風貌に特徴を与えることとなった。


陸軍大学校卒業22期卒後、参謀本部・第二部(情報)勤務。


1912年(明治45年)に海軍軍令部員と共に、商社マンに扮してフィリピン・マニラに潜入。


諜報活動を行った。



日本海軍の練習艦隊がマニラを訪れた際には、海軍少尉になりすまして米海軍の軍港を視察している。


1915年(大正4年)にインド駐在武官任命。


この時の縁で、インド独立運動家のラス・ビハリ・ボース、スバス・チャンドラ・ボースの日本招致や太平洋戦争中の対印工作に関与している。


1918年(大正7年)には、中東戦線を視察し、エドムンド・アレンビー(英語版)将軍率いる英軍の戦いぶりに衝撃を受けたと言われる。



その後、国際連盟空軍代表随員、1918年に陸軍飛行第2大隊長、1922年(大正11年)に初代陸軍省軍務局航空課長となり、陸軍航空隊育ての親と称される。


1928年(昭和3年)陸軍省軍務局長、満州事変勃発時には陸軍次官として「正当防衛」声明を発表、1932年(昭和7年)2月29日以降は久留米第12師団長、陸軍航空本部長、二・二六事件時の参謀次長兼陸軍大学校校長などを歴任。


1936年(昭和11年)の二・二六事件では青年将校らの要求を拒否し、反乱鎮圧を指揮した。事件後に教育総監、同年陸軍大将。

1937年(昭和12年)、林銑十郎内閣下の陸軍大臣に就任、続く第一次近衛内閣でも留任。


盧溝橋事件では強硬論を主張し、拡大派を支持。


1938年(昭和13年)辞任。軍事参議官となり、同年12月北支那方面軍司令官となり山西省攻撃を指揮。


1939年(昭和14年)、靖国神社臨時大祭委員長。1940年(昭和15年)から1944年(昭和19年)まで参謀総長に就任し、太平洋戦争開戦の立案・指導にあたる。



1943年(昭和18年)元帥。



1944年(昭和19年)2月のトラック島空襲を機とした東條英機首相兼陸相の参謀総長兼任の際には、山田乙三教育総監とともに統帥権独立を盾として抵抗するが、昭和天皇と木戸幸一内大臣に対する宮中工作をすませた東條に屈して辞任し、教育総監に再任。


小磯國昭内閣で陸軍大臣に再任される。


1945年(昭和20年)、鈴木貫太郎内閣成立後、本土決戦に備えて設立された第1総軍司令官となったが、敗戦後の9月12日に司令部にて拳銃自決。


参謀総長時代に会議(御前会議・大本営政府連絡会議)の内容などを記したメモランダムの写しが戦後『杉山メモ』として公刊され、当時の軍・政府上層部の動向を知る貴重な資料となっている。


参謀本部 編『杉山メモ 大本営政府連絡会議等筆記』上、下(原書房、1967年)


対米開戦をめぐる昭和天皇との以下のようなやりとりは有名である。


帝国国策遂行要領決定時に「もし日米開戦となった場合、どのくらいで作戦を完遂する見込みか?」と対米戦争の成算を昭和天皇に問われた参謀総長の杉山は「太平洋方面は3ヶ月で作戦を終了する見込みでございます」と楽観的な回答をする。


これに対して天皇は「汝は支那事変勃発当時の陸相である。あのとき事変は2ヶ月程度で片付くと私にむかって申したのに、支那事変は4年たった今になっても終わっていないではないか」と語気荒く問いつめた。


答えに窮した杉山が「支那は奥地が広うございまして、予定通り作戦がいかなかったのであります」と言い訳すると、天皇は「支那の奥地が広いというなら太平洋はなお広いではないか。いったいいかなる成算があって3ヵ月と言うのか?」と一喝し、杉山は言葉を失ったという。




終戦直前に元帥として天皇に意見を求められた杉山は、同じく元帥で開戦時の軍令部総長である永野修身とともに「国軍は尚余力を有し志気も旺盛なれば、なおも抗戦してアメリカ軍を断乎撃攘すべき」と奏上したという。


ただ、同時に諮問された同じく陸軍元帥の畑俊六は「これ以上の戦争遂行は難しい」という主旨の返答をしている。


綽名は「便所の扉」。


理由は「どちらでも、押した方向に動く」「日和見主義者」であったことから。


「グズ元」とも。太平肥満な容貌とスローモーな感じからきたあだ名とされる。実際、杉山は運動が苦手であった。


第一次近衛内閣の陸相時代、閣議で拓務大臣の大谷尊由から「陸軍は一体どの線まで進出しようとするのか」と尋ねられた。


これは弱気の近衛が拡大する一方の支那事変における陸軍の真意に不安を感じつつ、さりとて今更自分では訊けないので大谷に質問させたのである。


しかし杉山は質問を無視して答えなかった。


海軍大臣の米内光政が見かねて「だいたい永定河と保定との線で停止することになっているようである」と答えた。


すると杉山は米内にむかって「君はなんだ、こんなところでそんなことを言っていいのか!」と怒鳴った。


おとなしい米内はこの杉山の理不尽な激昂に対し「そうかなあ」とだけ答え、閣議の場はすっかり白けてしまった。


いかに戦前でも閣議を公然と「こんなところ」呼ばわりした軍人はそういない。




敗戦後の1945年9月2日、杉山は横浜のアメリカ陸軍第8軍司令部に呼び出され、司令官ロバート・アイケルバーガー陸軍中将より、旧帝国陸軍第1総軍の復員を全うするよう指示を受けた。


東日本の占領を担当するアメリカ第8軍としては、約40個師団の兵力を以て東日本に展開する第1総軍の復員を早急に行わせ、占領の安定化を急ぐ必要があったためである。


ただし、杉山が横浜から市ヶ谷に帰着して、副官・小林四男治中佐に語ったところによれば、アイケルバーガーは普段日本側に使用させていない司令部の正面玄関に自らの副官を差し向けて出迎えたこと、司令官室には日の丸と星条旗が並べて立てかけられていたこと、元帥である杉山に上座を勧めたこと、遠慮して着席しない杉山に着席をすすめ、杉山が着席してからようやく着席したこと、両者は通訳なしで英語で会談したこと、アイケルバーガーは杉山に一礼したのち「武勲嚇々たる杉山元帥に、命令伝達という要務でお会いすることは誠に残念。私は軍の任務が終わり次第、帰国して一市民となるが、元帥とは今後個人的な交誼を結んでいただきたい」と述べ、杉山を感激させた。


第1総軍の復員は9月11日に完了したが、杉山はその翌日に自決した。


自決に立ち会った田中忠勝大佐は、自決の日を12日に選定した理由について、総軍の復員完了を見届けてから自決する覚悟だったからではないかと推測している。


また、葬儀は第1総軍の部隊葬として執行され、アイケルバーガーが出席するという話が一時米軍側より伝えられたが、後に取りやめとなっている。


日米開戦の焦点となった支那駐兵問題については撤兵には絶対反対の姿勢をとっており、東条英機や木戸幸一と連帯関係にあった。



終戦後、9月に入ってから司令官室でピストル自決した(9月12日)が、この際にも彼らしいエピソードを残した。


彼は終戦後もすぐに自決せず、終戦直後に療養先から自宅に戻ってきた妻に「自決すべき」と迫られたとされる。


既に「御詫言上書」は終戦の日に書き上げて自決の覚悟もしていたようだが、これを妻に明かしたのは23日になってからであった。


終戦処理を終えた後、9月12日朝、部下から拳銃を受け取った後自室に入った彼は、暫くして突然ドアを開き緊張してドアの外で待っていた第53軍高級参謀・田中忠勝大佐に「おい、弾が出ないよ」ととぼけて言ったという。


田中大佐が安全装置を外してやるとそのまま部屋に再び入り、胸を4発拳銃で撃ち抜き従容と自決したという。


この自決の報を自宅で聞いた夫人は「息を引き取ったのは間違いありませんか?」と確認した後、正装に着替え仏前で青酸カリを飲み、短刀で胸を突き刺し自決して夫の後を追った。


二人が再会したのは幡ヶ谷葬儀場であったという。


杉山の副官だった小林四男治中佐と、参謀だった田中忠勝大佐の戦後の回想によれば、杉山は敗戦直後に自決を決意し、御詫言上書という遺書も用意していたが、終戦の混乱処理と第1総軍復員処理のため、延び延びとなっていた。


杉山夫人は自らも国防婦人会の役員であったことから自決を決意し、疎開先から東京に戻ってきていた。


12日の朝、田中参謀は杉山に呼び出され、「自分は本日自決するが、家内も同時に家で自決することになっている。しかし、若い娘(杉山夫妻には子供は無かったが養女がいた)のために家内には生き残ってもらいたいので、小林副官とも相談してなんとか家内の自決を思いとどまらせてほしい。自分はその翻意を聞いてから自決する」と言われ、田中参謀は小林副官と相談の上、杉山夫妻と家族ぐるみの親交があった小林副官が車を飛ばして杉山邸に駆けつけ、杉山夫人の翻意を促したが、夫人の意思は固く、小林副官は杉山に翻意させることが失敗したこと、しかし軽挙はしないと思う旨の報告せざるを得なかった。


その後杉山は自決したが、結局夫人も後を追うことになった。



杉山は支那事変開始時の陸相、大東亜戦争開戦時の参謀総長であり、敗戦責任について痛感することが大きく、8月15日の段階で「御詫言上書」と題する遺書(言上書)をしたためていた。


そして、この遺書は自決後の9月13日、昭和天皇の上聞に達した。全文は以下のとおりである。




御詫言上書


大東亜戦争勃発以来三年八ヶ月有余、或は帷幄の幕僚長として、或は輔弼大臣として、皇軍の要職を辱ふし、忠勇なる将兵の奮闘、熱誠なる国民の尽忠に拘らず、小官の不敏不徳能く其の責を全うし得ず、遂に聖戦の目的を達し得ずして戦争終結の止むなきに至り、数百万の将兵を損し、巨億の国幣を費し、家を焼き、家財を失ふ、皇国開闢以来未だ嘗て見ざる難局に擠し、国体の護持亦容易ならざるものありて、痛く宸襟を悩まし奉り、恐惶恐懼為す所を知らず。

其の罪万死するも及ばず。

謹みて大罪を御詫申上ぐるの微誠を捧ぐるとともに、御竜体の愈々御康寧と皇国再興の日の速ならんことを御祈申上ぐ。


昭和二十年八月十五日 認む             恐惶謹言陸軍


大将 杉山 元(花押)