グラン・サッソ襲撃 | 戦車のブログ

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1943年 9月12日第二次世界大戦:下のバドリオ政権によって幽閉されていたベニート・ムッソリーニがナチス・ドイツに救出された日だ。


グラン・サッソ襲撃(グラン・サッソしゅうげき、英: Gran Sasso raid)は、第二次世界大戦中の1943年9月12日、ドイツ軍によって実施されたベニート・ムッソリーニの救出作戦。

ドイツ軍における作戦名は、「ウンターネーメン・アイヒェ(Unternehmen Eiche、Unternehmenは「事業・作戦」、Eicheは「柏」(かしわ)、英語でオークの意)である。


この作戦は、アドルフ・ヒトラーの特命により、ドイツ空軍のクルト・シュトゥデントの指揮の下に実施されたもので、山頂に所在するホテルからの救出という困難な条件を克服して無傷でムッソリーニの救出に成功した。



1943年7月25日、イタリア王国の首相であったムッソリーニは、大評議会が首相解任の動議を可決したことにより、首相の座を追われて逮捕された。



これに対するナチス・ドイツの対応は素早く、翌日にはアドルフ・ヒトラーがファシズムの盟友である彼を救出するべく、ドイツ空軍のクルト・シュトゥデントにムッソリーニ救出作戦の立案及び決行を、武装親衛隊のオットー・スコルツェニーには救出後の保護を指令した。



ムッソリーニの身柄を拘束したバドリオ政権は、反体制派による奪還を防ぐためにムッソリーニをイタリア軍のカラビニエリによる警備の下、イタリア各地を頻繁に移動させていたが、シュトゥデントはラジオ放送の暗号解読等による調査の結果、最終的にムッソリーニがグラン・サッソのホテル「カンポ・インペラトーレ」に幽閉されていることを突き止めた。


詳細な作戦計画が練られたが、ムッソリーニの幽閉されているホテルはグラン・サッソの山頂に建っており、付近に輸送機が着陸できる余裕がなく、パラシュート降下では狭い範囲に集中させての降下が困難なことから、空軍に所属する降下猟兵を主力として救出後のムッソリーニを保護するための随行者であるスコルツェニーを始めとする少数の武装親衛隊員を加えて編成したコマンド部隊をグライダーで降下させることにした。




ムッソリーニを救出した後は世界初の量産ヘリコプターであるFa223でムッソリーニをドイツ軍の支配地域まで輸送し、グライダーで降下した部隊は陸路でドイツ軍の支配地域まで引き揚げるというものになった。

また本作戦にはイタリア社会共和国軍の将官フェルナンド・ソレティが同行し、守備側が抵抗した際に説得にあたることになっていた。


1943年9月12日、作戦は決行された。

グラン・サッソへの移動中にFa223が壊れてしまったため、Fi156を代わりに飛ばすことにした。

ドイツ軍のコマンド部隊は12機のDFS230に分乗して降下し、うち8機が着陸に成功した。


着陸に失敗したグライダーでは負傷者を出したものの、ドイツ空軍のハラルト・モルス少佐率いる降下猟兵の一隊がムッソリーニの幽閉されていたホテルへ突入し、一発の銃弾も発砲することなく、幽閉されていたムッソリーニの身柄を無傷で確保した。


ホテルを守備していたカラビニエリは抵抗しなかった。



降下猟兵がムッソリーニの身柄を確保する頃にはFi156がホテルのすぐそばに着陸しており、救出後の保護のために現地へ随行していた武装親衛隊のスコルツェニーは降下猟兵からムッソリーニの身柄の引き渡しを受けるとムッソリーニとともにFi156に乗り込んだ。


Fi156は重量オーバーながらも75m程度の滑走で無事に離陸し、グラン・サッソを脱出した。


また、グライダーで降下した部隊はロープウェイで下山し、予定どおり陸路でドイツ軍の支配地域まで引き揚げた。



この作戦は、困難な条件を克服して実施された要人救出の成功事例として名高いものであり、空から救出部隊を送り込む大胆不敵さと無用な死傷者を出さないスマートさは当時の世界の度肝を抜き、その劇的な経緯から戦後に小説、演劇、映画等の題材になった。


そして、作戦決行直前の1943年9月8日にイタリア王国が連合国に無条件降伏してしまっていたことから、ナチス・ドイツはこの作戦によって救出したムッソリーニを国家元首とするイタリア社会共和国を連合軍が侵攻していなかったイタリア北部のドイツ軍支配地域に樹立して戦争を継続した。



このイタリア社会共和国は事実上、ナチス・ドイツの監督下に置かれた傀儡政権であり、イタリア国内が第二次世界大戦の終戦直前までナチス・ドイツに協力するイタリア社会共和国と連合国に協力するイタリア王国とに分裂して内戦状態に陥ったことから、ファシズムの歴史においても、この作戦は非常に重要な意味を持つものとなった。



また、この作戦における功績により、スコルツェニーは親衛隊少佐に昇進の上、騎士鉄十字章が授与され、モルスにはドイツ黄金十字章が授与されている。

なお、ナチス・ドイツの宣伝機関が本件に関して、スコルツェニーがムッソリーニとともにFi156で脱出する部分を誇張して大々的に宣伝したため、連合軍ではスコルツェニーについて神出鬼没のコマンド部隊指揮官というイメージが定着させた。

後にパンツァーファウスト作戦並びにグライフ作戦等のコマンド部隊による作戦を指揮したこともあって最終的に「ヨーロッパで最も危険な男」と呼ばれるに至ったが、この時のスコルツェニーを始めとする武装親衛隊は救出後のムッソリーニを保護するための随行者という立場であり、作戦を実際に仕切ったのは降下猟兵を所管するドイツ空軍であった。




オットー・スコルツェニー(Otto Skorzeny、1908年6月12日 - 1975年7月6日)は、ドイツの軍人、武装親衛隊隊員。最終階級は親衛隊中佐。

様々な奇襲・極秘作戦に従事したことから「ヨーロッパで最も危険な男」と呼ばれる。

オットー・スコルツェニーはウィーンの中産階級の家庭に生まれた。


姓はポーランド語のスコジェンニ(Skorzenny)、もしくはチェコ語のスコジェニー(Skořený)に由来する。


身長192cm、体重90kgの偉丈夫でウィーン大学在学時にはフェンシング選手としてウィーンで名が知られ、15回の個人的な決闘(学生決闘)を行い、10回目で頬に大きな傷を残した。



1931年にオーストリア・ナチ党に加わり、すぐに突撃隊に入隊した。


当初から指導者としての適性を示し、1938年3月12日のドイツのオーストリア合邦の際には、併合協定調印を拒んだヴィルヘルム・ミクラス大統領をナチスの暴漢から守った。


1939年、第二次世界大戦が始まると土木技師をしていたスコルツェニーは空軍に志願したが、30歳を越えていたため入隊できなかった。


替わって親衛隊特務部隊に入隊、1940年2月21日にLSSAH連隊の一員として実戦参加。


1941年から1942年にかけて独ソ戦で戦い、負傷して1942年12月に帰国した。


退院後、総統直属の特殊部隊であるSSフリーデンタール駆逐戦隊を発案し、ヒトラーが創設を望んでいたこのコマンド部隊の指揮官に推挙された。


1943年7月に空軍と陸軍の候補者の中からヒトラーによって選ばれ、失脚して幽閉されていたムッソリーニを救出する作戦グラン・サッソ襲撃の指揮を執った。


イタリア王国軍は救出を妨げるためムッソリーニを様々な場所に移動させたが、9月12日、スコルツェニーは幽閉場所がグラン・サッソ山頂のホテルであることを突き止め、グライダー降下し、戦闘を発生させることなくムッソリーニを無傷で救出。この功績でSS中佐に昇進し騎士十字章を受章した。

1944年5月25日、レッセルシュプルング作戦を指揮。ユーゴスラビアのパルチザン指導者、チトーをドゥルヴァルの近くの司令部から誘拐し、バルカン半島における共産主義抵抗勢力を壊滅させる作戦であった。


部隊が司令部のある洞窟に到達した時、チトーは数分前に脱出した後であったため、作戦は失敗した。


1944年7月20日にヒトラー暗殺計画が実行され、クーデター派が重要機関を占拠しようとしたが、ベルリンにいたスコルツェニーは鎮圧に協力、反乱は36時間で制圧された。


1944年10月、ヒトラーはスコルツェニーをハンガリーに送った。


密かにソ連との講和を策していたハンガリー摂政ホルティ・ミクローシュの息子ニコラスを誘拐して摂政を辞任させ、講和による在バルカン半島ドイツ軍の本国からの孤立を未然に防ぐ作戦であった。


スコルツェニーはウォルフ博士の偽名を名乗り変装し周辺の情報収集を行い、ミッキーマウス作戦が行われるが失敗。


その後行われたパンツァーファウスト作戦は成功し、1945年4月までハンガリーには矢十字党率いる親ドイツ政権が存続した。

1944年10月21日、ヒトラーはアーヘンでアメリカ陸軍が鹵獲したドイツ戦車を自軍に使用した事からある作戦を発案、スコルツェニーをベルリンに呼び出し、アメリカ軍に偽装した戦車部隊の編制・指揮を命じた。


グライフ作戦と名付けられたこの作戦は、アメリカ軍の軍服を着た20名以上のドイツ兵が鹵獲したジープに分乗し、M10駆逐戦車に偽装したパンター、アメリカ軍の塗装を施したIII号突撃砲などを率いて戦線の後方に侵入、アメリカ軍を攪乱する作戦であった。


ドイツ軍の最後の大反攻となったアルデンヌ攻勢でこの特殊部隊はアメリカ軍を恐怖に陥れた。


一部の兵士は捕らえられたが、嘘の自白によって「部隊がパリを襲撃し、最高司令官のアイゼンハワーを誘拐または暗殺しようとしている」との噂を広めた。


アメリカ軍の警備は強化され、アイゼンハワーは何週間も司令部に閉じこめられることとなった。


この時「ヨーロッパで最も危険な人物」と呼ばれたスコルツェニーは、本作戦後1945年2月までソ連軍の押し寄せるドイツ東部を防衛する陸軍部隊を指揮した。