蓮田善明 | 戦車のブログ

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蓮田善明という人物を知っているだろうか?

今日は蓮田善明の誕生日である。

蓮田 善明(はすだ ぜんめい、1904年(明治37年)7月28日 - 1945年(昭和20年)8月19日)は、日本の文芸評論家、国文学者。青年期の三島由紀夫の思想形成に多大の影響を与えた。子に、赤ちゃんポストである「こうのとりのゆりかご」を実践している慈恵病院名誉院長の 蓮田晶一と理事長・院長の蓮田太二 がいる。

著書に『鴎外の方法』、『預言と回想』、『古事記学抄』、『本居宣長』、『花のひもとき』、『鴨長明』、『神韻の文学』、他に小説的作品の『有心』などがある。


1904年(明治37年)7月28日、熊本県熊本市北区(旧・植木町)、浄土真宗金蓮寺住職、蓮田慈善の三男に生まれる。

植木尋常小学校、熊本県立中学済々黌(現・熊本県立済々黌高等学校)を経て、1927年(昭和2年)、広島高等師範学校(現・広島大学教育学部の母体)を卒業。

鹿児島歩兵第45連隊に幹部候補生として10か月間入隊。

その後は1928年(昭和3年)、岐阜県立第二中(現・岐阜県立加納高等学校)、長野県立諏訪中学(現・長野県諏訪清陵高等学校)で教職につき、1932年(昭和7年)、広島文理科大学(現・広島大学の文学部、教育学部、理学部の構成母体)国文学科に入学。

1935年(昭和10年)卒業。台中商業学校に赴任する。

1938年(昭和13年)、成城高等学校(現・成城大学)教授就任。同年、清水文雄らと雑誌「文藝文化」を創刊。同人には他に池田勉、栗山理一らがいた。のちに同人に加わる三島由紀夫の『花ざかりの森』が掲載された昭和16年9月号の編集後記で蓮田善明は、「この年少の作者は、併し悠久な日本の歴史の請し子である。我々より歳は遙かに少いが、すでに、成熟したものの誕生である」と記し、三島を激賞した。

1939年(昭和14年)、中支戦線洞庭湖東部の山地に従軍、歩兵少尉軍務の余暇に各論考、日記を書き綴り、『鴎外の方法』を出版。

1943年(昭和18年)、陸軍中尉として再召集。1944年(昭和19年)よりインドネシアを転戦。1945年(昭和20年)8月19日、ジョホールバルにて所属する部隊の歩兵第123連隊長・中条豊馬大佐を射殺。その後、ピストル自決。享年41。


翌1946年(昭和21年)11月17日に、成城学園の素心寮で「蓮田善明を偲ぶ会」が行なわれた。

出席者は、桜井忠温、中河與一、清水文雄、阿部六郎、今田哲夫、栗山理一、池田勉、三島由紀夫。

出席者だけで蓮田の思い出を小冊子にまとめ、蓮田を深く知る版画家・棟方志功装幀で『おもかげ』という題名で発刊した。



蓮田は日中戦争から太平洋戦争へと戦局が拡大される時期に、2度、召集を受けて出兵している。

初めて戦場に赴く蓮田が池田勉に向かって、「日本人はまだ戦ひに行くことの美しさを知らない」と言って微笑んだという逸話は、蓮田の「実践的死生観」の精神を端的に現している。

伊東静雄は熊本へ向かう蓮田を大阪駅頭に迎えて、「おほきみにささげしいのち」と、壮行の辞を鉛筆で蓮田の日記帳に記したという。

死後に刊行された小説『有心』、または日記『陣中日記』では戦場の体験が描かれている。

その内容から戦場は蓮田にとって、死を直視した「末期の眼」を持って生と芸術(文学)の充実を確認させ、昇華させる貴重な舞台であることが見て取れる。

蓮田は軍務のあいまを縫って、時間を惜しむようにいつも机に向かい執筆をしていたという。

1945年(昭和20年)8月19日、敗戦を中隊長(陸軍中尉)として迎えての4日後、応召先のマレー半島ジョホールバルの連隊本部玄関前で上官である連隊長・中条豊馬陸軍大佐を射殺。その数分後に同じピストルをこめかみに当てて自決を遂げた。その時、左手に握り締めていたものは、「日本のため奸賊を斬り皇国日本の捨石となる」という文意の遺歌を書いた一枚の葉書だったといわれる。

鳥越春時副官の記憶によると、中条豊馬大佐は、「敗戦の責任を天皇に帰し、皇軍の前途を誹謗し、日本精神の壊滅を説いた」という。

蓮田はその集会の直後、くずれて膝を床につき、両腕で大隊長・秋岡隆穂大尉の足を抱き、「大尉長殿!無念であります」と哭泣したという。

鳥越副官は日頃、中条へ来る郵便物が金某という宛名で来ることを不審に思っていた。

しかも中条大佐の出身地が対馬であったことから、朝鮮から渡って来て中条家の養子になった人物ではないかと推理していたという。

また、中条は前線の視察も、現地人出迎者の応対が慇懃であったという。

しかし、松本健一による遺族への直接取材によると、中条豊馬は中条家に婿入りしたのは事実だが、元の姓は「金」ではなく、「陳」であるという。

養子になる以前の名は「陳豊馬」で、大分県宇佐郡の出身で、朝鮮出身ではないという。

千坂恭二は、蓮田の自決は突発的な偶然事であり、むしろ第一次応召と第二次応召の間に著された鴨長明論に、蓮田のありえたかもしれない「戦後」を先行的に見ることが出来ると言う。

蓮田善明は先鋭な古今主義者で、今日に生きる自分の切実な問題意識に応えるものとして、「自然に芸術的秩序を命課する絶対世界」である古今集を強く押し出した。

蓮田は、『詩と批評』で、「文学の噴出点は、凡ゆる意味の現実自然の素材天質から抽象された文学的世界である。

抽象といつても、正しく言へば、自然から抽象されたやうに見えるが、実は自然に芸術的秩序を命課する絶対世界の開眼である。

これに触れることによつてのみ自然も文学の素材となり、素質も文学的元質を発輝する。(中略)彼らのうちたてた風雅の秩序は遂に此の現身の世界を蔽つて、文化世界へ変革をなしとげた」と記している。

蓮田は三島の少年期の「感情教育の師」とされ、三島は生涯を通じて、蓮田の「実践的死生観」に強く影響を与えられた。

特に美学と天皇の関係は鋭く犀利であり、美的天皇主義をまだ若かった三島に託された形となった。三島が『伊勢物語のこと』を掲載した「文藝文化」昭和17年11月号に、蓮田は書評で、『神風連のこころ』と題した一文を掲載した。

著者は、熊本済々黌の数年先輩にあたる森本忠『神風連のこころ』(国民評論社、1942年)。

三島も後年、1966年(昭和41年)に神風連の地、熊本を訪れた際に森本忠と面会している。

三島没後に行なわれた池田勉・栗山理一・塚本康彦の鼎談の中で、栗山理一は、「同じ雅びを論じても、僕なんかの考え方と蓮田の考え方とは、その淵源が違うわけです。(中略)僕が雅びということを考えたときには、日本の古典、文化というものを対象としたのですが、雅びはみやこびですから、それは都雅であり、その都の中心は天皇ですから、天皇が文化の淵源であられるという認識で雅びを考えたわけですが、蓮田はもう一つそこを乗り越えて、信念として絶対視するというところがあったのです」と述べている。



塚本康彦が、「三島は、蓮田さんの死をダシにして己れの想念を述べていたようなふしがある」とふると、栗山理一は、「(三島には)勝義の自己劇化があると思うんです。三島らしい非常に計算された生き方であって、それはそれなりに評価しなきゃならないと思う」と述べている。

また、池田勉は、「三島君が、蓮田の二十五回忌に出席したときに、いま栗山の話したようなことをいった(三島が「私の唯一の心のよりどころは蓮田さんであって、いまは何ら迷うところもためらうこともない」と言った)のと同時に、私も蓮田さんのあのころの年齢に達したということをいってたな。蓮田は(かぞえの)四十二歳で亡くなっておりますがね」と述べている。

「蓮田の魂が想い描き、やがて昇り還っていった、雲の意匠による神話的世界を、三島もはやくから悲願として、心通わせるところのあったことが明らかであろう」と述べている。


「三島に強い影響を与えた文学者を三人挙げるとすれば、第一に指を屈すべきは蓮田善明である。ついで伊東静雄であり、もう一人は、焼跡で出合った林房雄であろうか。

蓮田は少年期と晩年の三島にとって、優しい父親の役割を果たしたと言ってよかろうと思う」と述べている。


蓮田は、1943年(昭和18年)、中尉として召集され、11月に戦地へ向かう出兵前に、「にはかにお召しにあづかり三島君よりも早くゆくことになつたゆゑ、たまたま得し一首をば記しのこすに、 よきひとと よきともとなり ひととせを こころはづみて おくりけるかな」という別れの一首を三島由紀夫に遺している。


1946年(昭和21年)11月17日に行われた「蓮田善明を偲ぶ会」で三島は、「古代の雪を愛でし 君はその身に古代を現じて雲隠れ玉ひしに われ近代に遺されて空しく 靉靆の雪を慕ひ その身は漠々たる 塵土に埋れんとす」という詩を、亡き蓮田に献じた。また、偲ぶ会の翌日、清水文雄に宛てた絵葉書には、「黄菊のかをる集りで、蓮田さんの霊も共に席をならべていらつしやるやうに感じられ、昔文藝文化同人の集ひを神集ひにたとへた頃のことを懐かしく思ひ返しました。

かういふ集りを幾度かかさねながら、文藝文化再興の機を待ちたいと存じますが如何?」と書き送っている。


三島は、1967年(昭和42年)11月8日付の小高根二郎への手紙で「前略 『蓮田善明とその死』感激と興奮を以て読み了へました。

毎月、これを拝読するたびに魂を振起されるやうな気がいたしました。

この御作品のおかげで、戦後二十数年を隔てて、蓮田氏と小生との結縁が確められ固められた気がいたしました。御文章を通じて蓮田氏の声が小生に語りかけて来ました。蓮田氏と同年にいたり、なほべんべんと生きてゐるのが恥ずかしくなりました。

一体、小生の忘恩は、数十年後に我身に罪を報いて来るやうであります。今では小生は、嘘もかくしもなく、蓮田氏の立派な最期を羨むほかに、なす術を知りません。

しかし蓮田氏も現在の小生と同じ、苦いものを胸中に蓄へて生きてゐたとは思ひたくありません。時代に憤つてゐても氏にはもう一つ、信ずべき時代の像があつたのでした。そしてその信ずべき像のはうへのめり込んで行けたのでした」と、著書で述べている。