ソ連国防人民委員令第227号 | 戦車のブログ

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1942年7月26日スターリンが、敵前逃亡を禁止する「ソ連国防人民委員令第227号」を発令した。

映画『スターリングラード』(原題: Enemy at the Gates)は、2001年製作のアメリカ、ドイツ、イギリス、アイルランド合作の戦争映画を見ると冒頭のシーンで銃すら持たないソ連兵を突撃させ、逃げる者は後ろから撃つ督戦隊も描かれている。

上の画像は有名な「一歩も下がるな!」の文言が入ったソ連の郵便切手である。

ソ連国防人民委員令第227号とは、第二次世界大戦中の1942年7月28日にソビエト連邦のヨシフ・スターリンが赤軍に対して発した宣言・命令である。「一歩も下がるな!」(露:Ни шагу назад! (Ni Shagu Nazad!))の行が特に有名であり、ソ連の反独抵抗のスローガンともなった。

中国軍(旧奉天派)第15旅隷下の督戦隊の部隊旗。1929年の中ソ紛争でソ連軍に鹵獲されたもの。


いかなる指揮官も命令無しに後退してはならない。これに逆らった者は、みな先任順位に応じて軍法会議にかけられる。

第227号令は各戦線(фронт、ソ連特有の編成単位)にそれぞれ1つから3つの懲罰部隊を編成させた。

これは規律違反で起訴された将兵によって構成され、最前線のもっとも危険な箇所に投入された。

兵卒と下士官で構成された懲罰中隊も編成された。1942年から1945年にかけて427,910人の将兵が懲罰大隊に組み入れられた。

この命令はまた各軍は督戦隊を配置せねばならないとも命じている。

彼らは味方の後方から“臆病者”の脱走兵や離脱を図ろうとする兵を射殺する役割を与えられていた。

指令の発令から最初の2ヶ月で130,000人以上が督戦隊に配属され、1,000以上の兵士が督戦隊に後方から射殺された。



これら2つの手段と命令の前文は、冬季の後退戦においてドイツ軍によって勝利し続けているとして引用された。

軍に督戦隊中隊を編成せよとの命令は3ヵ月後の1942年11月29日に取り下げられた。

苦戦している赤軍の士気を奮い立たせ、愛国心を喚起させるつもりだったが、有害な効果を引き起こし、一般的にうまくいかなかった上、督戦隊が人的資源を浪費するのを見た指揮官が督戦隊中隊を用いないこともあったりしたことなどから、1942年10月より赤軍内の正規の督戦隊はひっそり姿を消した。

ただし内務人民委員部(NKVD)やスメルシはその後も継続している。1944年11月29日、督戦隊は公式に解散した。


共産主義国によく見られる督戦隊、後方から銃を向けられないと戦えないような士気だったということだね。

ちなみに督戦隊とは、軍隊において、自軍部隊を後方より監視し、自軍兵士が命令無しに勝手に戦闘から退却(敵前逃亡)或いは降伏する様な行動を採れば攻撃を加え、強制的に戦闘を続行させる任務を持った部隊のことである。

兵士の士気を上げる為の手段であり、司令官が「死守」を命じると兵士は文字通り死ぬまで戦うことになる。

主要各国でも、督戦に充った部隊は散見される。

但し、督戦だけを主任務とする特別編成部隊などは一般的に存在しない。

現実的にそのような部隊を常に編成して持つことは非効率であり、機動性も悪く反感を買う。

あくまで、命令によって臨時的に督戦任務に充てられるものである。

ドイツでは第二次世界大戦末期のナチスの武装親衛隊や指導将校(独軍が労農赤軍(赤軍)の政治将校であるコミッサールをまねて導入したと言われる)が投降しようとする兵や民間人に対し戦闘継続を強要した例などがある。

赤軍関連でいえば、いわゆるNKVD部隊やスメルシ等が良く引き合いに出されるが、これらは原則として軍とは指揮命令系統が異なる。

戦闘時に軍の師団や連隊に編入され直接的に督戦にあたるわけではない(例としては、1942年 - '43年のスターリングラード攻防戦の際に渡河の要所をNKVDが管理していた。
このような場合は逃亡兵や不審者の逮捕・拘束、場合には射殺も行う。)その任務は非常に幅広いものだった対独戦初期の戦闘時の督戦の任を受ける部隊は、連隊長クラスの判断で隷下の一部部隊を臨時的に督戦任務に充てている場合が一般的であった。

ただし、スターリングラード攻防戦時には、国防人民委員ヨシフ・スターリン自身の命令(ソ連国防人民委員令第227号)により、軍レベルで各200人から成る督戦隊が3 - 5個編成された。


兵士の逃亡は古代から軍隊には付き物である。とくに精鋭中核軍でない部隊の兵(あるいは水兵)は、多くの場合地域の住民や難民、海軍の場合は寄航中や航行中の船舶や溜まり場の船乗りたちを強制的に徴発した兵であり、そのため別働隊として稼動させれば逃亡したり反乱をおこすなどの問題が頻繁にあった。

そこで多くの軍隊では戦闘中での逃亡に対し、厳罰を持って対処し、兵士の逃亡を防ごうとした。

オスマン帝国では皇帝直属のイエニチェリ部隊がしばしば督戦隊として機能した。

絶対王政下のフランス軍では、隊形を組んで前進する部隊を囲むように下級将校が配置された。彼らの第一の任務は逃亡する味方兵士の射殺であった。

近代に入り、国民国家が形成され、各国では徴兵制による軍隊が設立された。

アメリカでは、1861年から65年の南北戦争の際、督戦部隊を南北両軍とも戦闘時に配置している。

一方で、国家の近代化と市民化が進むにつれ強制徴募は衰退し、戦時国際法・ハーグ陸戦条約などでは占領地での兵の強制徴募が禁止されることになる。

しかしそれ以降も徴兵令による兵士(徴集兵)やゲリラ兵、市民兵、あるいは自国内で不正規に徴発された兵士(強制徴募兵)を督戦するための兵や部隊がしばしば登場した。

第二次世界大戦時、主に独ソ戦のソ連労農赤軍に於けるものや中国軍におけるものが有名である。

1937年の南京攻略戦の際にも敗退して潰走する国民党軍将兵を、挹江門(ゆうこうもん)において督戦隊が射殺したと言われる事件でもその存在が知られている。