陸軍大将児玉源太郎 | 戦車のブログ

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7月23日は児玉源太郎大将の命日である。

私の尊敬する軍人の一人でもある。

児玉 源太郎(こだま げんたろう、嘉永5年閏2月25日(1852年4月14日) - 明治39年(1906年)7月23日)は、日本の武士、陸軍軍人、政治家。内相(21代),文相(17代),陸軍相(8代))、陸軍大将正二位勲一等功一級子爵(なお、兒玉 源太郞の表記もある。「兒」は印刷字体、「児」は手書き書体)。

日露戦争において満州軍総参謀長を勤め、勝利に貢献した名将といわれている。


嘉永5年(1852年)、周防国都濃郡徳山村(現・山口県周南市)に、長州藩の支藩徳山藩の中級武士(百石)児玉半九郎の長男として生まれる。

父とは5歳で死別し、姉である久子の婿で家督を継いだ児玉次郎彦に養育された。

しかし、源太郎が13歳のときこの義兄は佐幕派のテロにより惨殺され、家禄を失った一家は困窮した。


兒玉 次郎彦は徳山七士の一人。
名は忠炳、号は青山また品山。徳山藩士・浅見栄三郎(正欽)の次男で、児玉氏に養われる。

体躯強大で剣技・銃術に秀で、和漢の歴史に通じた。

安政3年(1856年)、妻・久子、義弟・源太郎の父である児玉半九郎が死去すると、その家督を継いだ。

万延元年(1860年)同じく徳山藩出身の飯田忠彦が幕府に罪を問われて、江戸に憂囚され、その著作である『大日本野史』及び『諸家系譜』などを伏見奉行・林忠交に取り上げられた時に、有栖川宮熾仁親王の命を奉じ、林邸に往来し、弁論数回にしてこれを取り返した。

萩藩の久坂玄瑞、入江九一、寺島忠三郎らと親交があった。

文久2年(1862年)、河田佳蔵らと同じく京都に入って周旋方となり、翌文久3年(1863年)帰国して目付役に任じられ、京都留守居役を兼ねた。

同年6月に姉小路公知が暗殺され(朔平門外の変)、京都が騒然となると藩主の命で直ちに上京したが、8月に帰藩し、12月に藩校鳴鳳館の助訓役兼寮長となり、尊攘の大義を説いて後進の子弟を教育した。


元治元年(1864年)7月14日、大坂で禁門の変の報を聞き、切歯して帰国したが、8月9日に河田佳蔵らが保守派の富山源次郎の暗殺に失敗すると、次郎彦もまたその一味と目され、8月12日の早朝に保守派によって自宅で暗殺された。享年23。

次郎彦の死によって児玉家は家名断絶となったが、藩論回復後、徳山藩主・毛利元蕃は、徳山七士の家を復興し、その遺族を優遇した。

児玉家は再興され、25石で新たに召し抱えられる。

明治31年(1898年)に、徳山七士の7名全員に従四位が贈られた。

また、元藩主のたっての願いで徳山七士全員は明治天皇の命によって例外的に靖国神社に合祀された。
周南市の児玉神社には七士の顕彰碑(初めは遠石地区に建てられた)と贈従四位の碑が建っている。


明治元年(1868年)初陣。下士官として箱館戦争に参加した後、陸軍に入隊する。

明治7年(1874年)の佐賀の乱には大尉として従軍し戦傷を受けている。

熊本鎮台准参謀時の明治9年(1876年)には神風連の乱鎮圧、同鎮台参謀副長(少佐)時の明治10年(1877年)には西南戦争・熊本城籠城戦に参加。鎮台司令長官の谷干城少将を良く補佐し、薩摩軍の激しい攻撃から熊本城を護りきる。この経験が後の日露戦争に生かされる事となる。

神風連の乱鎮圧の直後、東京から現地へ真っ先に送られた電報「児玉少佐ハ無事ナリヤ」は、当時24歳の一少佐にかける期待がどれほどのものであったかを物語る逸話として有名。

台湾総督時代(1898-1906年)には、日清戦争終了後の防疫事務で才能を見いだした後藤新平を台湾総督府民政局長(後に民政長官に改称)に任命し、全面的な信頼をよせて統治を委任した。

後藤は台湾人を統治に服せしめるため植民地統治への抵抗は徹底して鎮圧しつつ、統治に従ったものには穏健な処遇を与えるという政策をとり、統治への抵抗運動をほぼ完全に抑えることに成功した。

二人の統治により日本は台湾を完全に掌握することに成功したといえる。


日露戦争開戦前には台湾総督のまま内務大臣を務めていたが、 明治36年(1903年)に対露戦計画を立案していた陸軍参謀本部次長の田村怡与造が急死したため、大山巌参謀総長から特に請われ、降格人事でありながら内務大臣を辞して参謀本部次長に就任する(台湾総督は兼任)。

日本陸軍が解体する昭和20年(1945年)まで、降格人事を了承した軍人は児玉ただ一人である。

日露戦争のために新たに編成された満州軍総参謀長をも引き続いて務めた。


日本軍の参謀育成のため、教官として招かれたドイツ陸軍参謀将校のクレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケルから才覚を高く評価され、日露戦争開戦を聞いたメッケルは「日本に児玉将軍が居る限り心配は要らない。児玉は必ずロシアを破り、勝利を勝ち取るであろう」と述べたという。


満州軍総参謀長として満州に渡って以降は遼陽会戦、沙河会戦、黒溝台会戦、奉天会戦などで総司令の大山巌元帥を補佐、また12月初頭には旅順攻囲戦中の第三軍を訪れている。

旅順攻囲戦においては児玉の功績が語られることがある。

日本軍が203高地を攻略したのは児玉が旅順に到着した4日後であった。

これを、児玉の功績によってわずか4日間で攻略されたと『機密日露戦史』で紹介され司馬遼太郎の小説作品などで世間に広まった(ただし、機密日露戦史は旅順戦において第三軍の方針と反発した大本営側の人間の証言を取り入れ現場の第三軍側の証言を殆ど採用していない偏った内容の資料であり、誤りも多いと別宮暖郎、長南政義、原剛などが研究調査して書籍などで発表されている)。


児玉らが203高地攻略を支持していた事について、児玉自身は第三軍の正攻法による望台攻略を終始支持したとされる(正攻法の途中段階で大本営や海軍にせかされ実施した2回の総攻撃には反対で準備を完全に整えた上での東北方面攻略を指示していた。


そのためには港湾部や市街への砲撃も弾薬節約の点から反対しており、当初は203高地攻略も提案していなかった)。

満州軍自身も児玉と同じく東北方面攻略を支持していた。

しかし第三軍は第三次総攻撃の成功の見込みが無くなると決心を変更し203高地攻略を決意する。

これに満州軍側の方が反対し、総司令部から派遣されていた参謀副長の福島安正少将を第三軍の白井参謀が説得した程だった。


児玉が来訪時に第三軍司令部の参謀に対して激怒し伊地知参謀長らを論破した事について、第三軍の参謀は殆どが児玉と会っておらず電話連絡で済ましていた可能性がある。


地図の記載ミスで児玉に陸大卒業記章をもぎ取られたのは第三軍参謀ではなく第7師団の参謀で、戦闘視察時に第三軍参謀を叱責した話も事実ではないとされる(この際同行していたのは松村務本第一師団長と大迫尚敏第七師団長)。

参謀は前線へ出て自分の目で見て考えろという児玉大将の逸話にあるが、日本陸軍の陸大出身者は大東亜戦争時には陸大出は国の宝だから失ってはいけないと最前線に出ず、極めて戦死者が少なかったのは皮肉な話である。

児玉が命じた攻城砲の24時間以内の陣地変更と味方撃ちを覚悟した連続砲撃について、児玉は実質的には何もしていないとされる。

既に28センチ榴弾砲は第三軍に配備されていた全砲門が203高地戦に対して使用されているし、児玉来着から攻撃再開の5日までの間に陣地変更する事は当時の技術では不可能だったはずとの事(実際のところは予備の12センチ榴弾砲15門と9センチ臼砲12門を203高地に近い高崎山に移しただけではないのかと検証されてもいる)。

味方撃ち覚悟で撃つよう児玉が命じた事について、攻城砲兵司令部にいた奈良武次少佐は「友軍がいても砲兵が射撃して困る」と逆に児玉と大迫師団長が攻城砲兵に抗議したと述べている。

奈良少佐の「ロシア軍の行動を阻止するためには致し方ない」という説明に児玉は納得したが第三軍の津野田参謀も「日本の山砲隊は動くものが見えたら敵味方か確認せずに発砲していた」と証言しており、児玉ではなく第三軍側の判断で味方撃ち覚悟で発砲していた可能性がある。


攻撃部隊の陣地変更なども為されておらず、上記の様に従来言われる児玉の指揮介入も大きなものでは無かったのではないかとの見解もなされて、203高地は殆ど従来の作戦計画通りに攻撃が再開され第三軍の作戦で1日で陥落したという説。

近年、第三軍参謀白井二郎や独立砲兵大隊長上島善重の回想といった第三軍司令部側の史料から、児玉が旅順で実際に第三軍の作戦に指示を与えていたことを指摘する研究が新しく出されている(ただし、これによると児玉は作戦立案自体は伊地知幸介第三軍参謀長以下の第三軍司令部に行わせており、児玉の発案だけで作戦が決まったとは述べられていない)。

上記の通り作戦自体ほとんど変更が見られない点から見ても児玉の指導があったにせよ内容的には極めて少なかったと考えられている。

これらは旅順戦に関しての児玉の作戦行動の可能性を示唆しているが、現在のところ複数の資料から検討されている段階で、未だ決定的証拠とまでは至っておらず、今後の研究で児玉の旅順戦に関しての実像解明が待たれている。


奉天会戦勝利の報に大本営がウラジオストクへの進軍による沿海州の占領を計画した際、児玉は急ぎ東京へ戻り戦争終結の方法を探るよう具申している。

目先の勝利に浮かれあがっていた中央の陸軍首脳はあくまで戦域拡大を主張したが、日本軍の継戦能力の払底を理解していた海軍大臣山本権兵衛が児玉の意見に賛成したこともあり、ようやく日露講和の準備が始められることとなった。

日露戦争後、児玉は陸軍参謀総長に就任。

また南満洲鉄道創立委員長も兼務するが、委員長就任10日後の明治39年7月23日、就寝中に 脳溢血で急逝した。

享年55。

晩年、浅草の凌雲閣で開催された日露戦争展で、小柄な児玉をナポレオン・ボナパルトに準えて称える二人の陸軍将校の傍にそっと歩み寄り「児玉はそれほどたいした男ではありませんよ」と囁きかけながら立ち去り、「何を言うか」と振り向いた彼らが児玉本人だと分かって驚く様を見て楽しむというお茶目な面もあった。


児玉と乃木は旧知の間柄であった。

千葉県佐倉における東京鎮台第二連隊長時代、演習で乃木(同第一連隊長)の指揮する部隊を児玉の部隊が奇襲によって大いに破った時、部下に「気転の利かぬ野狐を七分小玉で打ち上げた」と歌わせ、乃木をからかったという。

「気転」は乃木の名「希典」の音読み、「野狐」は「ノギ(乃木)ツネ」。

「七分小玉」は小さな花火のことで、身長の低かった児玉が「一寸に満たないほど小さい小玉(児玉)」と自分自身をもじったものであるとされる。

児玉は乃木の軍事的才能の限界を認識しながら、一方で軍人精神と明治人の美意識の体現者として尊敬の念を持っていたともいわれる。

己のパーソナリティの限界を弁えていたが故に、無二の親友であり自分にない人格的長所を持つ乃木希典に対する尊敬の念を終生抱き続けたと言われ、日露戦争終結後、旅順攻略における人的被害の大きさから陸軍部内でも乃木を非難する声が上がったが、児玉は「乃木でなければ旅順は落とせなかった」と一貫して乃木を擁護したという。

児玉の葬儀に際しては、激しい降雨をおして棺に付き添う乃木の姿が見られたと伝えられる。



児玉源太郎年表

以下ウィキペディアより転載

明治5年までの日付は旧暦
慶応元年(1865年)7月13日 - 周防国徳山藩中小姓となり、源太郎忠精を称す。
明治元年(1868年)9月22日 - 献効隊半隊士令として初陣。
明治2年(1869年)8月1日 - 兵部省御雇として仕官。
明治3年(1870年) 6月2日 - 大隊第六等下士官となる。
12月10日 - 陸軍権曹長に任官。

明治4年(1871年) 4月15日 - 陸軍准少尉に進級し、歩兵第3連隊第2大隊副官となる。
8月6日 - 陸軍少尉に進級。
9月21日 - 陸軍中尉に進級。

明治5年(1872年) 6月17日 - 歩兵第19番大隊副官に異動。
7月25日 - 陸軍大尉に進級。
8月1日 - 大阪鎮台地方司令副官心得に異動。

明治6年(1873年) 3月17日 - 大阪鎮台歩兵第1大隊近衛へ編入異動。
10月9日 - 歩兵科二等となる。

明治7年(1874年) 3月 - 正七位に叙位。
8月28日 - 熊本鎮台准官参謀に異動。
10月19日 - 陸軍少佐に進級。

明治10年(1877年)2月 - 西南戦争、熊本城に籠城。
明治11年(1878年) 1月31日 - 勲四等に叙勲。
2月25日 - 熊本鎮台参謀副長から近衛局に異動。
12月9日 - 勲功調査御用掛兼務。

明治13年(1880年) 4月30日 - 陸軍歩兵中佐に進級。東京鎮台歩兵第2連隊長兼佐倉営所司令官に異動。
5月28日 - 正六位に昇叙。

明治16年(1883年) 2月6日 - 陸軍歩兵大佐に進級。
4月18日 - 従五位に昇叙。

明治18年(1885年) 4月7日 - 勲三等旭日中綬章を受章。
5月26日 - 参謀本部管東局長に異動。
7月24日 - 参謀本部第一局長に異動。

明治19年(1886年)9月30日 - 陸軍大学校幹事兼任。
明治20年(1887年) 6月3日 - 監事部参謀長に異動。
10月24日 - 陸軍大学校長を兼任。

明治22年(1889年) 8月24日 - 陸軍少将に進級。
9月27日 - 従四位に昇叙。

明治25年(1892年)8月23日 - 陸軍次官兼陸軍省軍務局長に異動。
明治26年(1893年)4月12日 - 陸軍省法官部長に異動。
明治27年(1894年) 10月26日 - 正四位に昇叙。
12月26日 - 勲二等瑞宝章を受章。

明治28年( - 1895年) 3月25日 - 大総督府派遣中大本営陸軍参謀に異動。
4月1日 - 臨時陸軍検疫部長を兼帯。
6月29日 - 臨時台湾電信建設部長兼臨時台湾燈標建設部長に異動。
8月20日 - 男爵を受爵。
11月14日 - 臨時広島軍用水道施設部長を兼帯。

明治29年(1896年)10月14日 - 陸軍中将に進級。
明治31年(1898年) 1月4日 - 第3師団長に異動。
2月26日 - 台湾総督を拝命。
3月8日 - 従三位に昇叙。

明治32年(1899年)12月27日 - 勲一等瑞宝章を受章。
明治33年(1900年)12月23日 - 台湾総督のまま第4次伊藤内閣で陸軍大臣。
明治34年(1901年)4月20日 - 正三位に昇叙。
明治35年(1902年) 2月27日 - 勲一等旭日大綬章を受章。
3月27日 - 陸軍大臣を辞す。

明治36年(1903年) 7月15日:第1次桂内閣で内務大臣。
7月17日:文部大臣を兼任。
9月22日:文部大臣の兼務を免ず。
10月12日 - 参謀本部次長を兼任。内務大臣を辞す。

明治37年(1904年) 6月6日 - 陸軍大将に進級。
6月20日 - 満州軍総参謀長を兼帯。

明治38年(1905年)12月20日 - 参謀次長事務取兼帯。
明治39年(1906年) 4月1日 - 功一級金鵄勲章と勲一等旭日桐花大綬章を受章。
4月11日 - 台湾総督・参謀次長事務取扱から参謀総長に異動。子爵に陞爵。
4月23日 - 従二位に昇叙。
7月13日 - 南満洲鉄道創立委員長。
7月23日 - 自宅において脳溢血のため急死。正二位を贈位。

明治40年(1907年)10月2日 - 家督相続者児玉秀雄が父源太郎の勲功により伯爵に陞爵。


目黒にある陸上自衛隊幹部学校(旧軍の陸大)の資料室には児玉源太郎の肖像画が掲げられている。