南部利祥騎兵中尉戦死の日 | 戦車のブログ

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3月4日は明治38年のこの日に日露戦争井口嶺の戦いで戦死された南部 利祥(なんぶ としなが、明治15年(1882年)1月25日 - 明治38年(1905年)3月4日)騎兵中尉の命日である。


南部 利祥と聞いて直ぐに解る方は東北の人が多いだろう。

南部 利祥き南部家第42代当主。

第15代盛岡藩主南部利恭の長男。
階級は陸軍騎兵中尉。位階勲等功級は正四位功五級金鵄勲章受章。爵位は伯爵。

その人生は僅か23年の生涯であった。

短い人生で残されている逸話を紹介する。

明治23年、学習院初等科三年生のとき、皇太子(大正天皇)の学友に選抜される。
幼少期の大正天皇

明治三十年、盛岡に生まれ、遠野で教員・教育委員、『遠野市史』の編集委員を勤めた吉田政吉氏の『新盛岡物語』(国書刊行会、昭和四十九年(一九七四)十二月)中の「南部中尉銅像建設のこと」に、南部家四十二代の南部利祥としながをめぐる、次のような話が記されている。

『 利祥は学習院の小学生時代、大正天皇の皇太子時代の御学友に挙げられました。物静かだが心に強いところのある子供だったので、殿下からなかなか御信任があったそうです。

 こんな挿話そうわ があります。

 南部の屋敷に盛岡の家臣から、盛岡で俗に兎玉とか兎糞とか呼ばれる菓子を献上して来ました。兎糞というのは今でも売ってると思いますが、固い黒餡を白砂糖で固めた丸い物で、ちょっと兎の糞に似ているので、それで冗談半分に誰かが言ったのが、本名みたいになったものだそうですが、私達の子供の頃は、上等菓子の部類に入るものでした。

 利祥はこの菓子が大変気に入っていたので、家臣達はお屋敷へのお土産みやげといえば、いつもこれを持って上ったものなそうです。

 さて、利祥は自分が好きなものなので、それをある日殿下に差し上げた。宮中ではそんな事は厳重に禁じていたのですが、だがそこは子供同士のこと、こっそりその禁を破ったわけです。

 それから何日か経って、殿下がお菓子を食べられる時、「これでなく、こんな菓子を出せ」と駄々をこねられた。

 だが、お側の人はそんな菓子は知らないし、また宮中にありません。それで色々詮議となったが、これは御学友の誰かが差し上げたものかも知れない…となり、よく調べて見ると南部利祥の差し上げたものとわかった。そして、さらにその騒ぎを大きくしたのは、兎糞という名でした。もちろん伯爵家でも旧家の南部家でも食べている物に、悪い物がある筈はない…としつつも、糞と名のつく物を殿下に差し上げたとあっては不敬であり、かつお側の者の責任にかかわります。

 それで宮内省では、その実際を調査するためにわざ々々係官を盛岡に派遣し、その兎糞菓子を調査させました。

 宮内省の調査官は名称の由来もよく了解し、またその製造元にも、何の不備不良も無かったので安心して帰ったそうですが、一時はなかなかの騒ぎだったそうです。』


教育係の東條英教(東條英機の父)の勧めにより陸軍に仕官し、明治35年(1902年)11月、陸軍士官学校(14期)を卒業、明治36年(1903年)6月に陸軍騎兵少尉に任じられる。同年10月9日、父・利恭の死去により南部家第42代当主となる。

明治37年(1904年)、日露戦争が勃発し利祥は満州の最前線で活動した。翌明治38年(1905年)2月に中尉に進級し、近衛騎兵第一中隊第三小隊の小隊長を命じられ、最前線で指揮を執ったが、3月4日井口嶺の戦いで銃弾を浴び戦死。享年23。

竹田恒徳(もと恒德王)の『私の肖像画 ──皇族からスポーツ大使へ──』に南部中尉の最後が描かれている。

『父【恒久王】は戦争中の話はあまりしなかったが、ただ南部少尉のことはよく聞かされた。南部利祥少尉は南部藩主の四十二代目である。

日露戦争に従軍した父と南部少尉の二人が、戦線で並んで馬を進めていた時のこと、ふと両者の位置が入れ替わった。その直後に南部少尉は敵弾を受けて倒れた。

父は「南部が身代わりになって戦死した」といって、凱旋後、家にその写真を飾って永く祀っていた。その南部利祥氏から二代を経たいまの当主利英氏がまた私の親友である。』

竹田宮恒久王は陸軍少将で1906年(明治39年)、竹田宮の称号を賜り、宮家を創設。近衛騎兵連隊に属し、日露戦争に従軍した。井口嶺の戦いですぐ隣を進んでいた伯爵南部利祥騎兵中尉が敵弾に当たり戦死したという挿話を伝えているが、実際には南部中尉が戦死した3月4日には王は日本に帰国しており、ありえない話とも言われている。
1919年(大正8年)4月23日、当時流行していたスペイン風邪のため薨去。享年37。

竹田恒徳は陸軍騎兵中佐、その三男が竹田恆和氏で日本オリンピック委員会(JOC)会長そして長男が竹田恒泰氏である。

話がだいぶそれた。

南部利祥の栄誉を後世に残すため旧盛岡藩士らによって、明治41年(1908年)岩手公園に利祥の銅像が建立された。

しかし、太平洋戦争中の昭和19年(1944年)に金属供出によって撤去されたため、現在は台座が残されるのみである。