マインドと現象の間について意識が向きました。
映写機モデルでは空間があって離れているイメージです。
そしてそれは緩衝材のような役割だと認識していました。
いうならば思っていることがそのまま実現するわけではないわけで
もしくは実現するにしてもタイムラグが生じてきます。
現在でも概ねこれに違和感はありません。
しかし昔よりも実現度が高まってタイムラグが短くなっている感覚
だから空間が狭くなっているとも理解できます。
でも単純にそうでもないような気がしています。
そんなこともあって世界を認知するモデルの見直しをしようという
実感は隙間がほとんどなくなって隣り合わせになった印象です。
その間には膜のようなものがある雰囲気です。
加えて相互作用もあると推測します。
つまり現象からマインドへのフィードバックもかかるわけです。
この観点を取り込むとそもそも映写機モデルは違っていたとも思い
本来はマインドと現象は渾然一体として関わりあっているわけです
ある意味で切り離せないものとも考えられます。
要するに独立して成立するものでもなさそうだというわけです。
確かにそれらを別個のものとすることで理解しやすくはなります。
ところがそれ自体が本質から遠ざかるのかもしれません。
今回はこのことに気づけたとも言えそうです。
結局のところ映写機モデルは受け売りでしかありません。
なのである種の幻想だったわけです。
こうやって思考を巡らしているとマインドと目の前の現実との一体
言い換えるなら現実はマインドの一部でありマインドも現実の一部
これもある種の自己一致感だと想像します。
そしてここまでくるとそもそも何かに投影してモデルとして認識す
それはそれでしかなく分かりやすい何かに変換して理解する必要は
対象がなんであっても本当はそのはずです。
もちろん知っている何かに投影して理解のステップにすることを否
でもそこはゴールではないのです。
最終的には余計な不純物を取り除いてそのものをそのまま分かる状
例えはあくまで例えの範疇でしかないわけです。
ところがそれは分かりやすいがゆえに一人歩きしやすい性質を持ち
本や記事などで誰かに伝えようとするなら有効な手段なわけです。
どうしても最後は自分で掴みにいかなければならないのが事実なの
そういったわけで情報を理解しただけでは本質に触れることにはな
谷 孝祐
2023.2.1