3年前のしこうの楽しみ -31ページ目

3年前のしこうの楽しみ

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運動能力や力の有無についての自己認識を改めるべく意識を向けてみました。
やはり潜在意識の深くに小学生時代のものが残っていたようです。
まずはそれを自覚しました。
 

初めてキャッチできたものです。
まさに埋もれていた記憶でした。
下腹部に非物理的な塊があるかのような体感でした。
 

ただ想定以上に強固に居座っている印象です。
いずれにせよこれは明らかに不一致な状態であることが知覚できました。
現状と合っていないだけでなくそもそも誤認が含まれているわけです。
 

いうならば力もなく運動ができない方が良いかのような強度です。
そう装っていれば甘えて依存できるというようなパラダイムと同等のようなインパクトです。
もちろんそんなことは思ったことはありません。
 

当時はむしろ力があることや運動神経が良いことに憧れたものです
とはいえそれは自分ではないものになろうとする願望だったのだと今は感じます。
どうであれなぜそこまで強固になっているかが理解できませんでした。
 

単に維持された時間の長さの作用でそうなったのでしょうか。
それとも幼少期に何かあったのでしょうか。
確かに小さな頃は活発な子どもではなかったという記憶はあります
 

いうならばインドア派だった雰囲気です。
遊んだ記憶もブロックや積み木などが鮮明で外でも砂場がいいところです。
このようにフォーカスしてみると運動神経や力についてはすでに幼稚園の頃にそういう認識になっていたと推測されました。
 

どうやら小学生ではそれを強化しただけだったようです。
これは自分にとって新たな視点でした。
自ら他者と比較した認識もない時代のことです。
 

誰かに刷り込まれたものなのでしょうか。
そしてそこに魅力があったのでしょうか。
ここにフォーカスすると違った視野が開けました。
 

苦手ということにしておいた方が楽だったようです。
マイペースに好きな創作ができたのかもしれません。
ともかく独りで遊べる権利が得られるかのような実感が眠っていました。
 

こうやって整理してみると珍しいことでもなさそうです。
さほど運動が得意でなく力もなければそれを承認されやすい構造です。
でもこれは知らなかった自分を発見したようなものでした。
 

外で他の子と一緒に駆け回るよりも静かに穏やかにいたかったのです。
加えて力があることには乱暴さや横暴さの印象があったようです。
そんなクラスメイトがいたのでしょうか。
 

全く覚えていませんが脇目にそういう姿を眺めて関与しないようにしていた体感が浮かび上がってきました。
いうならば約40年越しに顕在化したものです。
結局のところ力がある自分にはなりたくないという想いがその頃に形成されていたわけです。
 

昔の体育会系の雰囲気から運動もそこに紐付けられてしまったと想像できます。
同時に戦いや争いや勝ち負けなども好きでない感覚だったことが自覚されました。
言い換えるとそこには野蛮な世界に来てしまったという違和感もあった気がします。
 

ひとまずこうして課題の核が顕在化されたのでした。

谷 孝祐
2023.1.12