道具という集合体への立ち位置 | 3年前のしこうの楽しみ

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道具の重要性に実感が深まったところからの展開です。
子どもの件だけでなくそう感じることがいくつかありました。
メインの理由以外にも立て続けに似たようなことがあったのです。
 

その蓄積によって大きく視点がズレてきたのかもしれません。
おそらくタイミングだったのでしょう。
潜在意識における何かが動かされたと推測します。
 

そして道具に対する立ち位置が変わったように感じます。
こうなってみて振り返ればそこに不一致があったのかもしれません
今回のことでそれが補正されたとも言えます。
 

もちろん元から目的にあった道具を使うことの意味は理解していました。
体験もしていて自分の選択の中核にもありました。
だからといって徹底されていたわけでもありません。
 

重要度が高くなければ用途目的を果たせば何でも良いという感覚もありました。
わざわざ専用器具を用いなくても汎用的にどうにかなるもので済ませられることはたくさんあります。
当然それが悪いわけではなく合理的とも解釈できるでしょう。
 

裏側にはわざわざ物を増やさないという前提もありました。
一般的にはそこにお金をかけないという要素も含まれそうです。
ということで誰しもこだわるポイントとそうでない部分があるのが通常だと推測します。
 

なので集合意識的にもこの不一致は当たり前のものとして存在していそうです。
大切にする道具といい加減に済ませる道具が混在して道具という概念に対するブレが生じる状態です。
この存在は当たり前で現実的には問題がないとも思えます。
 

だからその影響も受けていたのかもしれません。
具象レベル個別の道具に対しては明確さがありつつも抽象レベル集合体としての道具については実感が薄いわけです。
確かにそれは仕方ないことでしょう。
 

でも道具の発明が人類の進化に寄与したことは言うまでもありません。
より良い道具へと進化させていくことで現代社会の豊さに至っているとも考えられます。
そこに慣れきっている現代人が道具を失ったらどうなるでしょうか
 

食べることすら困るかもしれません。
つまり生きていくこと自体が困難になりそうです。
ここが理解できるとありきたりの道具に対しても感謝ができることでしょう。
 

要するに道具全体を俯瞰して認識できる立ち位置から実感できるようになったわけです。
帰結するところはいかに日常が様々なものに支えられているかを知覚するという言葉に集約されてしまいます。
ただその深まりは見えない様々なつながりを認識する窓になって生かされている実感を確固たるものにしそうです。

谷 孝祐
2021.3.26