周回遅れ仮説でみるステージ感 | 3年前のしこうの楽しみ

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乳幼児よりも主体的になることに対して周回遅れの大人がいる可能性があるという仮説からの展開です。
その前提は子どもとの比較からあります。
個人差はあるものの放っておけば自然と自分でやろうという力が出てくるように思うのです。
 

少なくとも自分の体験上はそのような体感です。
そこにあるやりたい気持ちは物事を動かすエネルギーを十分に伴っているものだと感じられます。
いずれにせよ子どもであれば依存から自立へという階段でイメージされやすいのです。
 

必要なサポートがあればこのプロセスは踏みやすいものです。
しかしある時点で生きる戦略として依存を選択した場合はその構図ではなくなるのかもしれません。
ステップアップではなくなるのです。
 

ここが自分にとっての盲点でした。
大人に対しても同じ感覚でいたのです。
成長過程における自立のタイミングで依存を選んでしまった場合はそれらが二元論的対極になるイメージが出てきました。
 

最初から自立の芽が見られない子もいるでしょうがその時点ですでに摘まれているとも考えられます。
つまり自立に向かうことなく依存が上達するわけです。
加えて多くの親や社会はそちらを求めがちなこともありそうです。
 

そうなれば周回遅れは当然といえばそうかもしれません。
依存してうまく生きるスキルを高めてきている大人は自立と逆ベクトルに進んでいる期間が長いと推測されるのです。
こうなると悲しいことかもしれませんが自立というベクトルにおいてはマイナススタートのようなものです。
 

違った方向に進んだ分だけ遠ざかっているわけです。
本人の中で既習の生きる戦略における成功実績が強ければなおさらです。
責任を負わなくて済む立ち位置が定着していればいるだけ無意識的にそこに縛られることでしょう。
 

これは実際には相当厄介なものなのかもしれません。
誰かや何かを頼ることが当たり前になりすぎていてそうなっていることも自覚できない状態です。
もちろんこれを批判しているのではありません。
 

それも一つの生き方であり本人が望むのであればそれなりの存在価値を発揮することもできるはずです。
あくまで自分らしく生きようと思った時の弊害になるという構造があるというだけです。
ところがこの見落としは反省に値するものだと思われます。
 

確かに乳幼児以下のステージにいるということは認め難いことでしょう。
当然ながらそこまでに身につけてきた社会性によってそう見えることもないものです。
だから振る舞いや自己認識に隠されてしまって自他共に気づきにくいことではあります。
 

とはいえここを正確に認識して承認することができれば成長欲求も刺激されて進む力が出てくるかもしれません。
これ自体が自己肯定にもつながって自己一致にも近づくことでしょう。
真摯に向き合う気持ちにもなりやすく自尊心が傷つく可能性も少なくなります。
 

もしこの前提に立つなら今までと異なるアプローチも必要だと感じます。
精神的自立の支援と言うのでしょうか。
思考レベルでの緻密な修正が必要になりそうです。
 

頭の中を締めている依存的発想や言語パターンを自立的なものに書き換える取り組みです。
シンプルに効果的なプログラムがこれに対して可能なのでしょうか
どうであれ自分のこれからの立ち位置を考えるのには一歩前進したように推測します。
 

大の大人を子供扱いするのは失礼という幻想から解かれてより効果にフォーカスすることになるのでしょう。

谷 孝祐
2020.2.4