今年最後のフライトからの展開で離着陸時の負荷について意識が向きました。
なのでそこを見つめようとしました。
なぜなのでしょうか。
その瞬間にそこに行き着く前の考察部分に答えが出たのでした。
それはフライトの長短への意味付けがなくなった理由についてです。
自覚はなかったもののどこか煮え切らない感覚が残っていたのでしょうか。
だから潜在意識が納得いくものを探していたのかもしれません。
ハッと気づいたような感覚でした。
結局のところ長さに意味はなかったのかもしれません。
どうやらフラットになったのは違った要素のようでした。
長距離フライトへの認識はそこに引きづられていたようです。
実際にはおそらく海外に行くことそのものに対する感覚でした。
残っていた過去のものがクリアになった雰囲気でした。
そこにあったのは非日常感です。
一般的にはそれがある方が通常でしょう。
そしてそれに付随する楽しさや喜びのようなものもあった気はします。
特に初めて国外に出たドイツ演奏旅行は自分にとって大きなものでした。
夢が叶ったかのような気分だったのだと想像します。
だからもしかしたら当時の喜びが投影され続けていたのかもしれません。
しかしそれが消えたかのようでした。
これまでの渡航の蓄積が臨界点に達したのでしょうか。
確かに気軽になったものです。
行き先がどこであろうとそんなに気分は変わりません。
やるべきことがあるから足を運ぶのみです。
また食の嗜好の変化から旅の楽しみの大きな要素を失ったのもここに加担していそうです。
特に食べたい真新しいものに出会うことも滅多にありません。
いうならば国内の方が安定的に食べたいものが揃います。
こんなこともあり海外に行くのも日常の中に完全に入ってしまったようでした。
一見するとつまらない状態かもしれません。
でもここにネガティブな印象もありません。
どこにいようと心持ちが変わらない度合いが上がったのはエネルギーロスが減ったことになるでしょう。
そう思うと機内も同様な感じがしてきました。
自分の外側が区別のない世界になったのかもしれません。
谷 孝祐
2018.12.19