暖簾だけの飲食店との出会い | 3年前のしこうの楽しみ

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とある島でのちょっとした体験です。
帰りの船までの時間にふらふらと歩いていました。
ちょうどお昼前のことでした。

そんなこともあり飲食店がランチ営業を始める頃でした。
港を東に向かってある程度行って戻ってきました。
その時にある風景に遭遇しました。

行きは全く気づかなかったことです。
建物の一階に暖簾が出ていたのでした。
とはいえそれだけです。

外にメニューもなければお店の名前もありません。
つまりどんな食事ができるのかも入らなければ分かりません。
見た目も決してお洒落とは言いがたい普通の感じです。

暖簾がなければ誰かの家か事務所かという様子です。
ちなみにドアも完全に閉まったままでした。
つまり本当に暖簾だけでしかそこが営業中のお店であることが伝わらないのです。

ここまで分かりにくい飲食店に出会ったのは初めてでした。
もちろんどこかで目の前を通り過ぎていたけれど今まで気づいていなかっただけという可能性はあります。
ゆっくり歩いていなければ認識できなさそうです。

だからなのでしょうか。
どことなく見てはいけないものに出会ってしまったような気分が微かに生まれたのでした。
まあ島の食堂というところなのでしょう。

知り合いしかこないからそれで十分なのかもしれません。
これでもアリなのかと自分の世界観がストレッチされたかのようでした。
極端に狭い社会では情報発信は必要ないのでしょう。

告知せずとも自然と人のつながりで知られるわけです。
原初的なコミュニティとも言えます。
誰が何をしているかが伝わってしまう世界です。

でも人の歴史の中ではこちらがスタンダードだったのかもしれません。
いわゆる村社会です。
すると現代では忘れられがちとも言えるその良さが身にしみてきたのでした。

共同体の価値観に縛られる一方で客観性を持たなくてもよい気楽さがあるのかもしれません。
自己認識が不十分であっても周りがそれなりに分かっている状況です。
それはそれで心のつながりの薄い状態よりは幸せを感じられやすそうです。

同時に日本が世界に対して似たような状況である気がしてきました。
空気を読むことが当たり前とされてきたのもその一端でしょう。
この10年くらいで外国人が急激に増えているように感じますが社会集団としてはこれでやっと開国とも解釈できるかもしれません。

そうであるなら日本人が日本人としての自己認識を正しい意味で持つことが意外に重要な気もします。

谷 孝祐
2018.11.10