二元論の相対性とその意義 | 3年前のしこうの楽しみ

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ふと二元論の限界が見えてきました。
これは争って生きるジレンマからの展開です。
昨日のこのブログ内容に出てきた安心のために敵を必要とするというところからです。

その象徴は善と悪でしょうか。
善い行いと悪い行いというようにも言えるかもしれません。
この形で様々な領域に適応できると思います。

つまり何かを善悪で分けてとらえる方法です。
そして一般的には悪を減らして善を増やす方向がよしとされていると考えられます。
しかしこれはくだんのジレンマと似たようなパラダイムです。

多くの場合においてこの解釈は相対的なものでしょう。
悪に対しての善なわけです。
例えば他者に親切にすることは善と理解されがちでしょう。

でもそれが当たり前に実現されているのであればそうもならないと予想します。
世界中全員が親切であればこれは善と感じられないということです。
不親切な行いとの無意識的な比較の上に親切である善い行いがあるということです。

加えて流動的な要素もあります。
状況によって変わりうるということです。
先ほどの例でいうなら親切にするのが必ずしも善とは言えないわけです。

親切にして相手の依存心を助長したとしたらなかなか判断は難しくなりそうです。
現実にはこういうことも案外多いような気はします。
もちろん絶対的な善というものもあるのかもしれません。

少なくとも蓋然性の高い善は想定しやすいと想像します。
ただそれもある価値観の上でのことです。
同様の価値観の通用度が高ければ絶対的に見えるだけのことかもしれません。

大きな枠組みであればなおさらのことです。
この地球上で共有されている価値観があるとしてその上に立脚する善であれば絶対性を持つようにとらえられるというわけです。
そうであっても時間軸を広げるとそれも絶対ではないかもしれません。

ということで結局はそこに実体はないとも推定できそうです。
そもそも二元論自体が物事を理解するハシゴでしかないということです。
変化の速い時代は自ずと流動性が上がるものです。

拡大適用は避けて適切なツールとして扱いたいものです。

谷 孝祐
2018.10.27