論理学と音楽の関係性 | 3年前のしこうの楽しみ

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機内でピアノ演奏を聴いた刺激は面白い発想につながったのかもしれません。
まさに偶然は必然という印象です。
直前に向き合った論理学勉強会のレジュメとこの機会が協調したのでしょう。

たまたま聴いた曲がピアノソナタだったことは大きな要因だと思います。
当然ながらピアノソナタはソナタ形式の音楽です。
それは提示部のあと展開部がきて再現部を経てコーダに至るという形式です。

主題の提示に始まりそれが変化していって形を変えて再現されたのちにエンディングがやってくるプロセスです。
その中に論理のエッセンスが見出されたのです。
きっかけはふとソナタの中に起承転結を感じたことでした。

厳密には異なる構成ですが提示部と展開部は起承に直接投影できます。
似ているといえば近しい感じはあります。
結を再現部とするかコーダとするかは重要ではありません。

むしろ結に該当するものはないのかもしれません。
ことさら何かを主張するわけでもないかと思います。
それはさておき結局のところ論理学に感じている面白さは音楽に対するものと同じなのかもしれません。

どちらも構造美なのです。
音楽は音の構造化であり論理は言葉の構造化だとこの時に気づいたのでした。
少なくとも自分にとってはその意味が強いようです。

きっとそこにひかれる何かがあるのでしょう。
美しくない論理は音のあっていない合奏のような印象です。
そんなことを考えているとあることを思い出しました。

昔は当たり前のように音楽の中に神性をみていたのです。
それは正しく構造が再現された時にチャンネルが合うような性質のものでした。
この時に音楽は奏者のものでも聴衆のものでも誰のものでもなくなります。

つまり人間のものでない状態になるのかもしれません。
もしかしたらそれは純粋な祈りとも言えるのかもしれません。
こんな概念を音楽に紐付けていたわけです。

なので口に出さずとも世の中には音楽に該当しない音楽が山ほどあるように感じていました。
しかし許容を広げていく中でそんなこともなくなりました。
同時に音楽にみる神性も忘れていったようにも思います。

とはいえ好きなものの核は変わらないものでしょう。
であるなら評価は気にせずにそこにフォーカスしてみるのも良いのかもしれません。
結局のところ状態が整ってその人らしさが自覚できるようになるサポートをしてきているのもそこなのでしょうか。

一個人であれそこにハーモニーは存在します。
それを調整して神性を取り戻すことがあるべき姿で生きることなのかもしれません。
その視点で今の活動をとらえなおすとさらに自己一致が進むのでしょうか。

少し取り組んでみることにします。

谷 孝祐
2018.3.7 5:17