音楽家としての唯一の諦め | 3年前のしこうの楽しみ

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その日の仕事を終えてひとまず落ち着いた時のことです。
とはいってもできれば先々の準備をしようかどうかという心持ちでした。
ただ翌日に回しても問題はありません。

なので方向性の確定していない狭間の時という状況でした。
久しくそんなこともありません。
大学院に通い始めてからはそのタイミングに作業しなければ後が詰まるという状態が通常になっていました。

卒業後もそんな様子です。
いつしかワーカホリックになったものだと思います。
その流れもやっとひと段落でしょうか。

そんなことを感じるとiPadのアイコンが目につきました。
それはミュージックプレーヤーでした。
ダウンロードした音楽が入っているもののほぼ開いていませんでした。

この夏に海外に行く時の機内で楽しむために準備したものです。
しかし肝心のイヤホンを持たずに渡航したのでした。
この滑稽さを思い出しつつひとまず開いてみました。

するとある曲が目につきました。
どことなく反応的な雰囲気でした。
そのくらい瞬時に惹かれたのです。

それはマーラーの交響曲全集でした。
珍しいこともあるものだと感じつつどれか聴こうと思いました。
スクロールしていくとやはり9番かという気分になりました。

これは自分にとって象徴的なシンフォニーです。
音楽家になりたくなった一つの要因なのです。
当時はプロにならなければ演奏機会がないだろうと考えたものです。

少なくとも若かりし時分にはそのくらいの難易度だと感じられたのでした。
規模感も大きいのでそれはあながち間違ってはいませんでした。
技術の高いメンバーが多数必要なわけです。

そして演奏したい曲の中で唯一実現しなかったものでもあります。
半ば諦めていたのが実際でしょう。
これを感じつつ主体的でなく流されている雰囲気でありながらも再生ボタンを押しました。

反応に対して選択的に乗っかったイメージでしょうか。
だからなのか一楽章が始まるとともにあることに気づきました。
クラシック音楽に逃げ込んでいたという発想が出てきたのです。

その世界に没頭すれば生まれてきた目的と向き合わなくて済むわけです。
しかしそれでいて無為に過ごすわけでもありません。
そこから受け取るものも大きかったわけです。

だからこそ磨かれた感覚があることも事実でしょう。
面白いものでこのプロセスと共に音楽に投影されていた自己価値が洗い流されたようでした。
やっとこれで純粋に音楽と関われそうです。

こうして週末の合唱練習が楽しみになったのでした。

谷 孝祐
2017.12.14 16:22