好きなことの感覚的定義へ | 3年前のしこうの楽しみ

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ふと自分の好きなことは何かという疑問が湧いてきました。
それが分からなくなってきていたのでしょうか。
好きなことをすればするだけそうなるのかもしれません。

逆説的ではありますがそんなものなのでしょう。
人の知覚は慣れると当たり前になっていくものです。
好きという認識もその範疇なのかもしれません。

嫌いなことや嫌なことがあってこそ際立つというものです。
比較対象がなくなると見えにくくなるわけです。
もしかしたら逆もまた然りで嫌いなことしかなくなるとその認識はなくなるかもしれません。

良い状態ではありませんが案外そういう人もいそうです。
好きなことが全くわからなくなっている場合はこの可能性がありそうです。
話題のベクトルを戻します。

加えて好きなことで満たされた状態では好きなことへの興味が薄くなることも考えられます。
日常がそれで満たされていたらさらに求めることもないでしょう。
ということで意識が向かなくなっていたように思います。

もちろんこれは幸せな境遇かもしれません。
ただそこで止まってしまうリスクがあるでしょう。
今回はそんな危機感からの疑問だったのでしょうか。

こういった前提から自分にとっての好きなことに注意を向けていました。
ほんの数日だったでしょうか。
結果的にあることがとらえられました。

どうやらフォーカスすべきポイントが移行していたようです。
好きなことといえば一般的に何か行動としての具体的な対象が想定されるでしょう。
食事を楽しむとか読書するとかというイメージです。

やりたいことと言い換えても良いのかもしれません。
しかしそこが満たされるとどこか平板な雰囲気になってきます。
好きでやりたいことしかやらなければ生活に凹凸が少ないのは自然なことです。

当然ながら感情的なアップダウンも起きにくいことが想像されます。
結果的にこのコンフォートゾーンにはまりやすいのかもしれません。
先のないゴールのような状況です。

自己一致していればそれだけ嗜好の変化も少ないでしょう。
あったとしても微調整レベルだと推測します。
これは理想的でもありつつ無感覚な方向に行ってしまうリスクもあるものです。

今回はそこからどこかジャンプが起きたような感覚でした。
余裕を持ったまま過ごすのが好きという認識が突然出てきたのです。
何をするのかではなくどう在るのかに照準があったわけです。

この領域での好きは確かに顕在化していないものがある気がします。
これから見つめて受け取っていくことにします。

谷 孝祐
2017.10.31 9:17