決める力は自然発生的には身につきにくいようです。
ただ決めないで流されてしまうのであればそれを決めるという手もありかもしれません。
あえて流されると決めるわけです。
普通に考えればその結果は同じでしょう。
流されて行き着く先は結局のところ変わらないので意味のないことともとらえられます。
しかし実際には異なる可能性が十分にあります。
確かにある一時点をみたら同じ結末かもしれません。
ですがその蓄積が違いを生む可能性はあります。
どうであれ決めていれば目の前の現象に対する主体性が変わります。
これは同じように流されているとしても関わりの深さが異なることを意味します。
つまり決めている方が流れをちゃんと認識しやすい状態です。
加えて主体的である方が責任感が持ちやすくなります。
決めていなければどこかで他責になりがちでしょう。
流された先が思わしくなければそれを嘆いたりもします。
極論では自分の運命のせいにしたりもします。
どれも自分以外の何かに原因を求めているわけです。
こうなると現実は変えにくいものになってしまいます。
なぜならその原因がどうにかならないと変化しないためです。
そして大概はそれは働きかけにくいものだったりします。
なのでどうすることもできないという気分になりがちでしょう。
一方で決めているとこれが起こりにくいのです。
なんともできない現実ではなくなるのです。
要するに結果を自分が生み出したものとしてとらえやすいわけです。
こうなると結果が選択しうるものになってきます。
選ぶものによって結果が変わるという感覚が芽生えてくるわけです。
この認識が流されることをやめることにつながっていくことでしょう。
自分が願わない状況を作り出していることが理解できればそれを変えたくなるわけです。
もしそれにチャレンジしてうまくいったなら決めることの意義が見出せるかもしれません。
そこまででなくとも自立度は上がっています。
こうなると世界の見え方も違ったものになるでしょう。
このベクトルでも決める内容が変わるかもしれません。
そうしてより自分にあった決断ができるようになるわけです。
そんなわけでどうであれ決めて動く自己責任の立ち位置を取っていきたいものです。
谷 孝祐
2017.10.29 23:31