承認のジレンマからの脱却 | 3年前のしこうの楽しみ

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とある質問から承認について考える機会が生まれました。
確かに相手を認めて受け入れるといってもどうするのが良いのか分かりにくいのかもしれません。
もしくは自分を認めて受け入れるといっても想像がつかないということもあるでしょう。

いずれにせよそれがどのようなものなのか共有することは意味ありそうです。
そんなわけで明示していくことの重要性を感じたのでした。
そのひとまずの備忘録レベルとして記しておこうと思います。

詳細としてはステップが必要ですがこれはまず概略のイメージです。
承認において重要な問題は同時に両者を承認することにあります。
つまり自分と誰かなのであればその両方を認めて受け入れるということです。

一般的には相手に譲ることになる感じがするかもしれませんがそうではないということです。
それを行ってしまうと多くの場合において自分に対する抑圧になってしまいます。
これは自分の感覚や感情を無視することになってしまいます。

なので結果的に自己承認できない状況に陥るわけです。
こうなると形の上で相手を承認していたとしても砂上の楼閣です。
通常はこれでは心理的には相手を認められていません。

その行為に対する否定心には何も触れずにそのままなわけです。
行為だけ認めて内面的には良くないと思っているわけです。
例えば配偶者がお酒を飲み過ぎているとしましょう。

客観的に過剰であり健康を害しそうな状態です。
それに対して否定的な気持ちが湧いてくるとします。
ここで飲むことを許すことが承認なのかが問題となります。

そしてその行為を受け入れるべきかどうか悩むことになるわけです。
大量に飲むことに口出ししないというのが一見承認にとらえられるのかもしれません。
ただこういった場合において同時に自分の想いも認める必要があります。

だからこそ本質的な承認は難しいのかもしれません。
しかしこの課題は実際にはシンプルです。
想いの承認と言動の承認という異質のもので比べてしまっているのです。

場合によってはこれが言動レベルでどちらが正しいかという争いに発展することもあるでしょう。
ということでこのレベルで承認を考えることは徒労になることも少なくありません。
なぜなら承認は心理的なものであり心理的範囲が適用範疇だと考えられるからです。

この視点を持つと同時に複数の人を承認することが可能です。
そこにいる全ての人の想いや感情や反応を全て認めて受け入れるわけです。
これができると実は言動レベルでの変化が起きやすいものです。

過剰な行動を相手に認められようとして行っている行為が必要ないものになっていくためです。
これができると人間関係における障害は格段に減るでしょう。
自然とどちらが譲るでもなく良いバランスが見つかっていくものです。

そんな在り方を身につけていきたいものです。

谷 孝祐
2017.4.30 9:09