朝起きて少しぼーっとしている時のことでした。
なんとなく人の性質に意識が向いたようでした。
そしてふとある推測が生まれてきました。
多くの人にとって嫌なことを避けられることは価値なのかもしれないと思ったのです。
これは知識レベルでは分かっていたことですが実感が薄かったのでしょうか。
どことなく発見のような感覚で浮かび上がってきたのでした。
そこから潜在的な思考が展開したのでしょうか。
やりたいことが実現することよりもその方が重要度が高い人もいるような気がしました。
そうであるなら避けたいことに意識が向きがちになることも仕方ないでしょう。
だからこそ必要以上に囚われたり縛られている心境になるのかもしれません。
もちろん自分自身にもそういった経験はあるので分からなくはありません。
ただそれでも行きたい方向とセットでとらえていた記憶があります。
あくまで嫌なことはクリアするか回避する対象でした。
決められた枠組みの中での効用最大化は自分にとって基本の価値観となっていたようです。
思い返せば重要なことを安易に諦めることはなかった気もします。
誰に教えられたわけでもありませんがそれが当たり前になっていました。
なのでどのような状況であれ満足に意識が向いていたと言えそうです。
実はそれが大きな違いをうんだのかもしれません。
ということである疑問が湧いてきました。
嫌なことを避ける意識が主であるとどういう状態になるのかという問題です。
この視点からあるイメージがとらえられました。
それはドーナツの穴そのもののようなものなのかもしれません。
枠であるドーナツのがあるからこそ自分が規定される状況です。
つまり嫌なことがあるからこそ自分を認識できるというパラダイムです。
しかしその中にいることの不自由さから自由を求めるわけです。
これでは枠から出ることは自分がなくなることを意味してしまうでしょう。
自分の素直な感覚がわからないというのはこういう世界にいるからなのかもしれません。
生まれた時はきっと誰しもこの状態なのでしょう。
親がいるからこそ自分がそこに在るわけです。
そんな場所にいるからこそ自分を知ろうと思うのかもしれません。
ドーナツがなくなった時に存在できる心理状態になることが自立なのでしょう。
谷 孝祐
2016.12.14 13:00