朝起きてシャワーを浴びているとある言葉が思い浮かびました。
何かが洗い流されて浮かび上がったのでしょうか。
それは出すぎた杭というものでした。
これには自分の中での概念が連動しているようでした。
出る杭は打たれるという諺はほとんどの人が知っていることでしょう。
概ね目立ち過ぎると非難されるというような意味合いかと思います。
転じて突出すると痛い思いをするという解釈もできるかもしれません。
自分がこれを知ったのは中学生の時でした。
当時は受け入れたくなかったのでしょう。
出すぎた杭は打たれないという表現を後ろに付け加えて理解したのでした。
その部分が今回は意識化されたのでしょうか。
どことなく出すぎた杭になることを受け入れる必要を感じたのでした。
受け入れないつもりで無意識領域には固定化されていたのでしょうか。
そのつもりはないものの出る杭にならないようにしていたのかもしれません。
実感はないもののその可能性を否定できないような気がしました。
ここまでくるとなんだか突っ掛かりがあるような体感覚が知覚できました。
みぞおちのあたりにシリコンの枝のような質感のものがあるようでした。
これが何かを引き止めていたのでしょうか。
ささやかなエゴの抵抗だったのでしょうか。
自分の才能を適度にしか発揮させないようにしていたのかもしれません。
ということで改善を試みることにしました。
すると体のことを気遣ってバランスを取ることにこれが一躍かっていた感じがしました。
これが重要な役割であることは確かです。
しかしより的確に状態管理をできるようになってきたために不要になったのでしょうか。
こう考えると少し軟化した感覚がありました。
次にここに不安の塊があるような認識が生まれました。
打たれることをイメージしての反応だったのでしょう。
するともう一つの意味づけが思い出されました。
そういえば出る杭は打たれて強くなるという案もあったのです。
確かにこの諺では打たれたからといってそれで終わりというわけでもないわけです。
ひとまずこちらに移行してもう少し自分を生かせる状態になろうと思います。
谷 孝祐
2016.7.14 18:46