火の光に照らされたもの | 3年前のしこうの楽しみ

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薪ストーブの火を眺めながらぼんやりと過ごしている時のことでした。
一人でこういう状況を楽しめることはほとんどないものです。
そのため自然な火の熱や光が想像以上に刺激になったのでしょうか。

よく考えれば火といっても日常生活ではガスコンロくらいしか目にしないものです。
そんなわけでその存在はあまり意識に入っていないのかもしれません。
もちろん生きていく上では重要なものですが自分はその実感が薄いのだと気づきました。

そして多くの人もそうなのかもしれないと感じました。
必要な時に必要なだけ利用できるのが当たり前すぎてその大切さが埋もれてしまっているのでしょう。
この度合いは水や電気よりも高いように推測します。

そこから火を起こすことに意識が向かいました。
この時は薪をくべて着火剤を使うという簡単な方法で行いました。
しかし大昔はもっと大変だったのだろうと思いました。

木の棒を利用するにせよ石を使うにせよ摩擦によって起こしていたわけです。
幼い頃に体験したことがありますがなかなかうまくいきませんでした。
ただこれが火起こしの基本であることも確かです。

ということでどんなに世の中が便利になってもこういう体験を子どもにさせることは必要なのだろうと思いました。
原始的で根源的な体験というのはグラウンディングの度合いにに影響するのではないかと感じるためです。
少なくともそれが自然と共に生きる感性につながることは確かでしょう。

そういった環境から切り離された社会で生きているからこそそのような経験が重要でありそれが当たり前の日常を意識化するきっかけになることでしょう。
そんなことを考えているとふと自分にはやりたいことがないという感覚がでてきました。
そこには投げやりな感じも焦燥感も喪失感もありませんでした。

以前であればこういう時は一抹の寂しさがあったものですが今回は何もありませんでした。
意識と火が共鳴して見せてくれたのでしょうか。
それはただ事実を認識したという様子でした。

やりたいことを全部やるという在り方の終焉なのでしょうか。
確かに個人レベルにおいてはやりたいことがないと認めきってしまった方が楽な気がします。
そしてより自然体になれる感じもあります。

これも一つの自己一致なのかもしれません。
ひとまずこの概念を手放してみようと思います。

谷 孝祐
2016.3.15 15:48