鎖の意味していたところ | 3年前のしこうの楽しみ

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自宅の売却の契約が完了しました。
これでよっぽどのことでもないかぎり手放すことが確定です。
思ったよりはすぐに買い手がつかなく、いまいち流れがよくない気がした時もありましたが、結果的に最適なタイミングで状況が動いたのかもしれません。

それは、多少の猶予期間があったことで、見えない部分での急激な変化が避けられ、ストレスがかからなかったようにも感じるためです。
なぜこのように認識しているのかというと、決まる流れと自分の内面の変化が連動したかのようだったためです。
実は内覧の予約が入ったという連絡が来た時に、今回で決まるというような確信に近い体感のようなものがありました。

もちろん根拠などない第六感のようなものです。
そして、ちょうどそのあたりからこの世という枠を超えるのかどうかという内面の課題が始まりました。
今思い返せば、自宅は自分にとってこの世というフレームの象徴だったのかもしれません。

そうでないとしても安住の場所というイメージがピッタリだったことは確かです。
実際に、周りの住民もそのようにとらえていそうなリタイア組が多そうでした。
あらためて自分の家をイメージすると、この世で自分にとって最高の場所というような感覚であったことがうかがえます。

そんなわけで手放すことになるとは一切思ってもみなかったわけです。
そういう意味において、いつの間にか囚われてしまっていたこともうかがえます。
売るという発想が浮かばないくらい固定化されていたわけです。

鎖に投影されたイメージは、もしかしたらその場所との癒着を表していたのかもしれないとも思います。
そして、そのつながりが希薄になった翌日が内覧だったのでした。
その日は二組の来訪がありました。

その翌日に、その両方が買い注文をいれたのです。
今まで10組以上が見にきて気に入りつつも決断にいたらなかったこともあり、予期していたにも関わらず不意打ちのように瞬間的に決まったかのような気がしました。
もちろんこれ以前の変化の積み重ねが基礎となっていたこととは思いますが、内面の深い部分がどれだけ現実に影響を与えているのかということを実感したのでした。

谷 孝祐
2015.3.29 17:09