休みという意識への考察 | 3年前のしこうの楽しみ

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ある一定の違いを感じたので、休みという心持ちでいることとそうでないことの違いを明確にしておこうと思いました。
そうすることで上手に使い分けができる可能性があるためです。
そんなわけで、もう一日観察しながら同じようにその日は休みという認識で過ごしてみることにしました。

予定は多少あったものの、それも休みという意識のままで済ませてみました。
もちろんリミットがきている作業もそうやって行いました。
そんなわけで、実質的には休みとは言えないような状況ですが、それでもやはり今までと違うように感じました。

やはり気の持ちようで変わることはあるようです。
リラックス度は格段に上がっているようでした。
それとともに、休みという意識のままでも案外いろいろなことができるものだということが分かりました。

すべてをそのようにしたらペースは落ちるかもしれませんが、全くできなくなるというものはなさそうだと推測できました。
さて、問題の何が違いのかということですが、休みという認識を持たない場合は微妙にストレスがかかっていたようです。
意図的にそのような考え方をした記憶はありませんが、やるべきことを全部済ますことができるように意識することで、結果的に完了できない可能性が微細なストレスを生み出していたようでした。

ある意味では、ちゃんと終えられるように自主的にストレスをかけていたのかもしれません。
それは自分にスピードを課している状態でもあるでしょう。
しかし、これは減点法のような自己認識につながってしまうかもしれません。

思った予定通りに終えられないと、あとが詰まっていくということで問題になるわけです。
それが、休みと思っている場合は逆転して、加点法のとらえかたに変わります。
やればやっただけプラスなわけです。

結果的に良い循環が生まれ、結局は作業効率が大きく変わらずにリラックス状態も保たれます。
そんなわけで、それを信頼してできる限り休みという認識のまま日々を過ごしつつ、緊急時だけ仕事と思って注力するというバランスが健全なのかもしれないと思ったのでした。

谷孝祐
2014.10.29 19:02