自分の存在が変容する扉 | 3年前のしこうの楽しみ

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田舎の幹線道路を走りながら、またしても自分がなぜここにいるのかという疑問が出てきました。
前夜に泊まった田舎町のホテルのキッチンで若い日本人が働いていたことも刺激になっていたのかもしれません。
そのホテルでは日本人が来るのは珍しいのか、ホテルのスタッフがわざわざキッチンの中まで連れていって紹介してくれたのでした。

社交辞令程度の会話をしてキッチンを見学させてもらっただけで、主観的には奇遇なこともあるととらえただけでしたが、潜在意識では印象的な体験だったのかもしれません。
そのような疑問が出てくるということは、まだ浄化の旅が好きと思えていない部分があるのかと思いましたが、感覚的には問題ないようでした。
では、なぜかと探っていくと費用対効果が悪いように感じているようでした。

好きだけれど、自己成長が目的ならもっと費用対効果の優れた方法があると感じているようでした。
そして、客観的に全体にとって意味があるのは分かっているけれど、主観的に自分にとってそこまであちこち回る意味があるのかという想いが生まれました。
すると、ふとフランスで感じたことが思い出されたのでした。

それは、今自分がやっていることの成果を自分の目で確かめることができる可能性が低いということでした。
自分が生きている間に思い描いた成果が明らかに見える形になる希望が薄いということです。
どうやら、それに対する残念な感じを潜在意識の深くに持ってしまっているようでした。

確かにこの目で確かめられるならそれだけで自分にとっても十分な価値があり、続ける原動力になります。
その希望が今までの行動を可能にしていたようでした。
だからといってやめるつもりもないので、価値観を変えて原動力を生み出す必要があります。

一つの可能性は費用対効果という概念を手放すことでしょう。
縛られているほどではありませんが、今までの選択の重要な指針の一つで、この要素が効率的に人生を進めるのに役立ったことは確かです。
費用対効果を認識した上で別の指針を重要視するためにそれが良くない選択をすることはありますが、全く考えないということはありません。

ただ、自分の中からこの概念がなくなれば、より淡々とやるべきことに向かえるのかもしれません。
もう一つの可能性は、自分という概念を手放すことです。
自分と社会の区別をなくすのです。

そうすれば自分のしたことで自分が何かを受け取らなくても、社会が受け取っていればバランスが取れることとなります。
もはや受け取るという概念も必要なくなります。
精神的にそのような段階に来てしまったということなのでしょうか。

もしそうなら静かに受け入れたいと思います。

谷孝祐
2014.6.5 17:33