それでも自分とするか | 3年前のしこうの楽しみ

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デザートの記憶喪失の件で、自分に対する許容を広げるのはともかく、何が起きたのか検証したくなりました。
居心地の悪さとか気持ち悪さがあるからというわけではなく、これは単純な興味です。
どちらかというと推理小説のような趣味的なものですが、この性分が自己理解を進めてくれているという要素もあるでしょう。

さて、問題はデザートだけ記憶がなかったことです。
これは飲みすぎたというだけでは理由として不十分であることを感じさせます。
そして、ワゴンサービスであったにも関わらず、自分で選んだ記憶がないことも異常に思います。

もしかしたら今までにもあったのかもしれませんが、主観的には無意識の選択をした記憶は過去にありません。
そして、何を選んでいたか同席者に尋ねてみると、おそらく通常の意識状態だったらそれを選んでいないように感じたのです。
何となく自分と不一致な選択のような気がしたのです。

そして、その選択は右隣の人と全く同じだったらしいです。
このことから、何らかの同調が起きていたような気がします。
狐につままれたとは、正にこのようなことかもしれないとも感じてしまいます。

そんなことを結論にしても納得感がないので、もう少し深めてみました。
集中して思い出そうとしてみると、キャラメルアイスを食した舌の感覚と香りがかすかにとらえられました。
それをきっかけに、他のものも何とか食感だけは思い出すことができました。

ところが、視覚的な記憶はいっこうに出てきません。
思い出される食感や香りからかろうじて映像を再現することはできますが、これは自分で構築したもので記憶ではありません。
このことから、目隠しをして食べていたのと同じような意識状態だったことが推定されます。

高次とされる脳が一時的に働かなくなったのでしょうか。
環境因子や会話の内容、食べているものの刺激などが複合的に関連しあってそのようになったのかもしれません。
確かにそのような状態の自分ですら認めることは、究極的な自己肯定の領域のようにも感じます。

結論ではありませんが、もしかしたらその門戸をくぐるように促すための現象だったのかとも推測できるでしょう。
もしそうであるならなかなか面白い挑戦かもしれません。

谷孝祐
2014.3.27 22:45