言葉への理解と不安 | 3年前のしこうの楽しみ

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思ったよりもドイツでは英語が通じませんでした。
スパのセラピストに限らず、数字や時間は特に通じない印象でした。
ホテルの案内やレストランのメニューもドイツ語のみということもありました。

面白かったのは、英語のメニューをもらってもドイツ語混じりで表記されていたことです。
それも、スープとかビーフとかといった、選択に重要そうな部分の単語がドイツ語のこともあるのです。
全くドイツ語を知らないと少し厳しい状況かもしれません。

とはいっても、学生時代にドイツ語を英語より多めに勉強していたので問題はありませんでした。
そんなわけでもともと聞き馴染みがあり、意味は分からなくとも音はとらえられるということで、妙な安心感がありました。
数日経って馴染んでくると、少しは思い出してくる実感がありました。

そのことから感じたことが、全くわからない言葉を話されると無意識的に不安が生まれているのではないかということでした。
今回はほんの少しは分かったわけで、その差が大きいように感じたのです。
通常は、言葉が分からないことへの不安が無意識的でありながら案外大きいように実感したのです。

そして、そこから発展して、こういったことは母国語でも起こり得るのではないかと思いました。
母国語の場合は、言われていることが理解できないと無意識的に不安が生まれているのではないかということです。
人によっては、分かる言葉のものが分からないという圧力も手伝って、不安が増長される可能性もあるでしょう。

分かっているつもりの場合も無意識的には不安が生まれていそうです。
もしかしたら、その不安を感じないために自動的に分かっているつもりになってしまうのかもしれません。
そう考えると、母国語であれ外国語であれ言葉への理解が深まることは副次的に安心感を生み出すことになりそうです。

また、種種の不安を感じるようにすることで、分かったつもりの勘違いが減るかもしれません。
もう少し言葉に意識を向けてみようと思います。

谷孝祐
2014.3.18 23:53