清流に見るもの | 3年前のしこうの楽しみ

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日本に帰ってきて心から感じたことがあります。
それは、明らかにすっきりした感じが増していることです。
もちろん感覚的な側面においての話ですが、空気もより澄んでいるように思い、相模湾ごしに眺める富士山や伊豆半島もひときわ近くに見えます。

このように表現すると素晴らしいことのようですが、逆にこのクリアさが厳しい何かをあぶり出す可能性を感じます。
それは濁っていた池がある程度浄化されて澄んできたために見えてくる、濁りの原因が明確になるようなものです。

濁った池が心地よかった生物にとって、澄んだ池は居心地が悪く存在できない可能性もあります。
同じように、存在できなくなる何かが、最後の悪あがきをしているということもあるでしょう。
正直、見ないことにしていた内面的課題をつきつけられる人には相当きついかもしれないと感じるほどです。

特に11月くらいから始まった自己否定のあぶり出しは、自己否定を見ないことにしていた人にとっては自分を扱いきれないくらいの波がやってきているかもしれません。
もちろん乗り越えれば、より自分自身とつながって日々を送ることができるという側面において、本質的には必要なことではありますが、波に飲み込まれて奔走しかねないくらいの勢いを感じます。
最近増えている地震もどこかで関係があるのかもしれないと思うくらいです。

自己否定の厄介なところは、自己否定が自己否定を呼び出し、本人の意識の中で輪廻のように膨らんでいくことです。
シンプルに言うと、自己否定スパイラルにはまって人格崩壊に向かうイメージです。
全てを自分の悪い部分と捉えて、自己を傷つけます。
傷の上にさらに傷をつけ、自分自身で傷だらけにしてしまいます。

このスパイラルから出るには、いくつかの方法があります。
一つは、何も考えないことです。
ただボーッとしているという方が正しいかもしれません。
ボーッとしているうちに何かが変わっていきます。
自己否定する自分がバカバカしく思えたらしめたものです。

他には、依存心を見つめるということです。
自己否定は依存の一形態です。
自己否定することで何を得ようとしているのかを探る方法です。
得ようとしているものを理解できれば、他のより健全な方法が思いつくかもしれません。

そこから転じて、主体的に自己否定をしてみるという方法もあります。
飲み込まれない程度の状態でなければできませんが、自分で意図的に積極的に自分のダメな部分を見つけていき、自分がダメであることを認めるという作業です。
これは、自己否定を感じきるという表現がイメージしやすい人もいるかもしれません。

もしこれができれば、自己否定は大きく改善します。
なぜなら、自分自身の嫌な部分も認めるということになり、嫌な自分も認めるということが自己肯定につながるためです。
結局は、それがどのような性質のものであれ、自分の全てに光を当てることがポイントなのかもしれません。

2012.12.17 11:26 谷孝祐